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ダン

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ハートネットTV こわれゆく”福祉“

見てる。内容がエグい

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Gazami

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ETVで、マレーシアのマハティールさんやってる。
みんな見て。政治や歴史について考えようよ。
今、リークアンユーと対決してる。
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ダン

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ETVでBGMに「ギャルと恐竜」流れてた
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ダン

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ETVの子供番組の制作スタッフになるのって狭き門なんだろうな。ビットワールド見ながらふと思った
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玉三郎

玉三郎

お笑いコンビ"十五冠"、面白かったですね。木刀・引き分け(決着がつかない)・確信を持っていい手を指した時が最高、あたりがハイライトかな。NHKらしい作り込みが随所に見られていい番組でした。これはトーク部分の完全版も出すべきだ。 #ETV特集
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ぶる~

ぶる~

撮り溜めていたETV特集を観た
なんて良い番組なんだろう
「カイル博士と棚田の集落」
「草の大地に生きる-ある放牧酪農家の人生-」
どちらも大変興味深く、登場する人々の語る言葉、生き方・考え方に感動し学びを得た
同時に農業の在り方や限界集落、後継者などの社会問題、命ついて考えさせられた
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マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

岸辺の100冊📖´- # 14-30

#読書の星 #松本隆


☆『風街とデラシネ』田家秀樹 '21 初版 角川書店

『80年代〜大滝詠一との再会 、ロンバケが遅れた本当の理由とは?』

'70年代の終わり頃からニューミュージックが台頭してきていた。歌謡曲とニューミュージックと演歌に洋楽、これらの音楽がヒットチャートを毎週入れ替わり立ち替わり目まぐるしくランダムに乱高下していた。日本の音楽シーンに於いて、若者が"自分たちの音楽"を推す風潮は実は1950年代からすでにあったはあった。ニューミュージックは歌謡曲とは明らかに歌の"造り"が違っていて、歌う楽曲はシンガー自身が作る、所謂シンガーソングライターが大半を占めていた。歌謡曲は作詞家、作曲家、レコードの音を決める編曲家が皆バラバラで餅屋は餅屋の分業制だったのだが、ニューミュージックの潮流を作ったのは、1970年デビューのはっぴいえんどである。但し、シンガーソングライターとはっぴいえんどのやり方はちょっと違っていて、その後台頭するシンガーソングライターたちの大半はレコード化する為の編曲まではプロのアレンジャーに発注したが、はっぴいえんどは自分たちで音を紡いでいった点である。まぁ、バンドだから当たり前、と思うが、1970年当時そこに踏み込むのは、既製勢力の壁が高くレコード業界ではその構図を打ち破るのには相当な勇気が必要だった。日本の音楽シーンにもそれなりの慣習が残っていた時代である。それまでの職業作家だった人たちがこの新たな潮流を嫌っていたのは言わずもがなだったが、一人だけ上手く迎合したのが筒美京平であった。筒美京平の作品はよく、洋楽をモティーフに作られている、と言われたが、その思考や在り方はニューミュージックのシンガーソングライターたちと全く機を一にしている。だから、時代が1980年代に入り洋楽の影響色濃い、ニューミュージックや後のJ-POPの時代に入ってからも筒美京平にはミュージシャンやアイドルからのオファーが絶えなかったのである。要約すると、日本のポップス史とは洋楽を如何に日本人の志向に合わせて作るか?が服部良一の時代からの命題だった、と言える。その日本のポップス史を研究したミュージシャンが大滝詠一だった。彼は1984年にアルバム『EACH TIME』を作り、個人としては初のチャート1位になったのを見届けるかのようにして、あっさりとシンガーソングライターを辞めた。1981年のアルバム『A LONG VACASION』のヒットに端を発して、丸3年間、ミュージシャンとして活躍して、他人への楽曲提供にも応じていたが、その三年間が嵐の様に過ぎ去ると彼は世間から身を潜めるかのように第一線からは遠ざかった。以後、あらゆる趣味に没頭する大滝は、三年周期で様々なことに没入しては印税やラジオの出演料で暮らしていた。活躍していた80年代から彼はテレビという媒体では唄わず全てのテレビ出演を断っていたが、その代わりラジオ📻には積極的に出演していた。そして一度没頭した趣味に回帰することも無かったが、本年9月13日土曜日23:00からNHKEテレで放映されたETV特集でクローズアップされた大滝のドキュメントの中で松本隆がインタビューに答えて……もうちょっと頑固にならずに長生きしてくれてたら、はっぴいえんどの再々結成もあったかもしれない……と語っていた"頑固にならず"は、この趣味癖のことを差しているんだろうなぁ、と私は直感で思っていた。長年の盟友ならでは言葉だった。
そんな大滝がはっぴいえんど以来、作品においては一度も組まなかった松本隆と再び組んだのが、『A LONG VACASION』だった。はっぴいえんど解散後、大滝は自己のレーベル『NIAGARA』(勿論、大滝の名に由来している)を設立したが、レコード会社が難航した。と、云うのも大滝ははっぴいえんど解散後から数々のCMソングを手掛けていて、そのCMソングの音源をレコード化したかった。それを条件に大手レコード会社を回ったが、どこも答えはNOだった。CMの音楽なんて誰が買う?。こんな感じで結局一番好感触を得たのが、大滝が一番嫌がっていたエレックレコードだった。エレックは当時吉田拓郎や泉谷しげる、佐藤公彦、海援隊、ずうとるびらを擁していた会社だったが、印税や契約に関することがアバウトで、大滝が嫌っていたのもそこが一番の要因だったようである。然し背に腹はかえられぬことから大滝は契約したのだが、嫌な予感は当たるもので、エレックレコードは1976年7月15日に倒産した。大滝は自己のレーベル『NIAGARA』を発足し最初に山下達郎や大貫妙子らがいたシュガーベイブのプロデュースを手掛けて、ファーストアルバム『SONGS』を1975年4月に、翌月に自己のアルバム『NIAGARA MOON』 をリリース。どちらも製作費を凌ぐほどの売上は出せ無かった。
田家が書いている通り、当時の大滝は作詞、作曲、編曲、自己のスタジオを持ちレコーディング、トラックダウン、マスタリングのエンジニアまですべて一人で受け持ち、果ては原盤管理に至るまで行った最初のミュージシャンであった。原盤管理についてはフジ・パシフィックの朝妻一郎という音楽に大変造詣の深い理解者がいたので、大滝は自己の音源を他者ではなく自身で管理しなければならない、との信条から1976年7月22日に株式会社ザ・ナイアガラ・エンタープライズを設立、会社の設立資金は朝妻のいるフジ・パシフィックからの援助も受けた。朝妻に関しては大滝のレコーディングに係る必要な資金を供出してくれる正にグレートコンポーザーであった。音楽は文化事業であることを分かってくれていて、単に損得勘定のみで考える人間ではなかった。朝妻がいたから、80年代の大滝の活躍があったと言っても過言ではなかろう。不遇だった70年代の大滝の活動を下支えしたのも朝妻だった。朝妻は、……彼なら間違いなくブレイクするって確信は70年代から思ってました。我々は長い目で音楽を見通さ無ければならないんです。当時の上司からは随分と責められましたが、大滝君や山下君には『時代がまだまだ全然追い付いて無かった』んでしょうね。彼らは先見性をもって音楽と向き合っていたんです。それだけは私の中にもずっとありました。だから、大滝君より山下君の方が♫RIDE ON TIME で先にブレイクしちゃったでしょ?あれれ?ってね(笑) 大滝君の時よりも山下君のブレイクの方が喜びが大きかったかな(笑)信じてたものがやっと報われたんだ、ってね。……
エレックレコードが倒産して大滝はコロムビアレコードと契約したのだが、レーベルは存続可能であり、大滝は契約金まで受け取る事が出来たのだが、大滝は契約そのものより契約金で16チャンネルのマルチトラックレコーダーを購入することの方を嬉しがった、という話は有名だ、と田家は書いている。しかしコロムビアレコードとの契約内容とは3年間でアルバム12枚、シングル12枚、つまり年間で両方4枚ずつというアイドル以上の過酷な条件を突きつけられたという。最終的にその条件はクリアしたが、中には大滝がプロデュースに専念した(2曲はヴォーカルでも参加)シリアポールの『夢で逢えたら』というオールディーズカバーアルバムや大滝の歌が入っていないインストアルバムも含まれていたのだから、コロムビアもよくこれでOKしたな……と思えるアルバムが含まれている。1976年から1979年までの3年余の間は殆ど毎日レコーディングスタジオに居たよ…と大滝の当時"丁稚"だった音楽評論家の湯川学が、後に大滝との回想談を録音したテープの中で親交のあった音楽評論家の萩原健太に語っていた大滝の言である。このテープは今回のETV特集で初披露されていた。田家はこの書の中で、『78年11月、12枚目のアルバム「LET'S ONDO AGAIN」が出て契約満了、彼は晴れて自由の身となった』とある。コロムビア時代の、大滝名義及び大滝詠一名義のみならずとも少なくとも大滝のアルバムとしてカウントできる枚数は総じて11枚であった。これにはエレックレコード時代の『SONGS』と『NIAGARA MOON』のリイシュー盤を含む。田家が指摘した『LETS ONDO AGAIN』以後にはもう一枚アルバムが出ていた。これは契約枚数を消化させる為にコロムビアレコードがナイアガラ時代の山下達郎の音源を編んだベスト盤の様なものだった。それが1980年7月10日にリリースされたTATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA / 山下達郎 である。
因みに3年間の内シングルは9枚のみであり、こちらは契約不履行であった。
今月の1日に発行されたナイアガラの丁稚こと音楽評論家の湯川学が嘗て、レコード・コレクターズ誌で連載していた記事が上梓された『A LONG A LONG VACASION』の中でロンバケの担当ディレクターであった旧CBSソニーの白川隆三がインタビューに答えているのだが、大変興味深い証言を取り付けている。今や通説となっている松本隆が妹を亡くしてスランプに陥りロンバケの詞が書けなくなったからキャンセルしてきた、という件のことである。キャンセルしてきた松本に大滝は、発売なんて延期すればいいと言ったのは事実だが、そこで朝妻、大滝、松本、白川の4人が軽井沢で合宿して松本の再起の一助となった、という流れで語られているのは違う、という訳だ。松本隆の妹、由美子が亡くなったのは1980年6月28日のことだという。アルバムの当初の予定が1980年7月28日の大滝の誕生日で設定されていたことと鑑みると、松本の詞が発売の1ヶ月前の段階で上がって無かったというのは直接的には妹の死によるブランクとは関係ない次元でのディレイが生じていた事になる。これは今回出版された湯川の本で改めて分かった事実であった。軽井沢での合宿が発売予定だった1980年7月に行われたことも併せて考えるとロンバケの発売延期はもっと違う理由による制作上の何か、という事に他ならないしその真の理由には誰も何も発言していない。白川隆三はこのアルバムの担当ディレクターでありながら、制作面は全くタッチしていなかったという。白川がディレクターとしてやったことと言えば、大滝のレコーディングためにソニーのスタジオの確保に只管奔走していただけ、と言い切る。大滝の歌入れの為にシナソ(信濃町ソニースタジオ)のスタジオを3ヶ月に亘り立ち入り禁止にしたのは有名な話である。白川は他のディレクター達からのクレームを一身に受けたことは容易に想像できる。発売延期の理由については田家のこの本でも松本隆自身が自分の妹の死で詞が出来なくなり…と語っているCD解説を引用しているため、と紹介しているがこれも事実誤認であることが、今回はっきりしてしまったが白川の発言が如何に貴重な証言かが判るのである。
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カナリア諸島にて

大滝詠一

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ダン

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録画しておいた

ETV特集 トラウマ治療

を見る。冒頭からしんどそうな内容なので音量を小さめにした
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