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偶像をつくらないということを、仏像から考えてみた

こんにちは、石川尚寛です。
日本にはたくさんの仏像があります。寺に行けば立派な仏像が並び、街の中でも小さな仏像を見かけることがあります。ふと、「仏陀自身は仏像をどう見ているだろう?」と考えました。仏陀はきっと、像そのものではなく、そこに込められた心や学びを大切にしたのではないか。そんな問いが、僕をモーセ五書の十戒の二番目の戒律へと導いてくれました。

出エジプト記20章4節にはこうあります。
「あなたは自分のために、像を造ってはならない。天にあるもの、地にあるもの、水の下にあるものの、いかなる形も造ってはならない。」
ここで使われているヘブライ語は「פֶּסֶל (pesel)」。これは「刻んだ像」「彫刻」を意味します。ただの造形物ではなく、それを拝む対象にしてしまうことへの警告だと感じます。

僕が心を動かされたのは、この「像」という言葉が、石や木で作られた偶像だけを指しているのではない、ということです。仏像も本来は心を映す鏡であって、像そのものを拝むことが目的ではないはずです。僕の日常で言えば、スマホの通知や数字の増減に心を奪われることも、一種の「像」になり得るのではないか。目に見えるものに安心を求めてしまう弱さを、聖書は静かに映し出しているように思えました。

この戒めは「禁止」というよりも、「心を自由にするための言葉」として響いてきます。何かに縛られるのではなく、見えないものに信頼を置く勇気を持つこと。僕自身、まだ答えを持っているわけではありませんが、この問いを抱えながら生きること自体が大切なのだと思います。

これからも、モーセ五書をマンガという形で描きながら、自分の学びを少しずつ分かち合っていきたいです。
気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

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まっすぐじゃない人生の中で、まっすぐに選ばれることもある

こんにちは、石川尚寛です。
先日、ある友人と話していて、「人生って、まっすぐ進めたことなんて一度もないよね」という言葉が印象に残りました。
たしかに、思い描いた通りに進むことなんて、ほとんどない。
むしろ、うまくいかなかったことや、後悔している選択のほうが、心に残っていたりします。
でも、そんな「うまくいかなかった道」の先で、思いがけず誰かに出会ったり、大切なものを見つけたりすることもある。
その話を聞いて、ふと、創世記38章のユダとタマルの物語を思い出しました。

創世記38章は、ヨセフ物語の途中に突然挿入される、ちょっと異質な章です。
ユダは兄弟たちとヨセフを売ったあと、家族から離れてカナン人の女性と結婚し、三人の息子をもうけます。
長男エルの妻となったのが、タマル。けれどエルは「主の目に悪」とされて死に、次男オナンもまた、兄の名を継がせる役目を果たさずに命を落とします。
ユダは三男シェラが成長するまでタマルを実家に帰しますが、やがて彼女を忘れてしまいます。

タマルは、自分の未来が閉ざされたまま放置されていることに気づきます。
そこで彼女は、顔を覆い、遊女のふりをしてユダを誘惑し、子を宿します。
やがて妊娠が明らかになると、ユダは「火あぶりにせよ」と言い放ちますが、タマルが自分の子を身ごもったと知ると、「彼女のほうが私より正しい」と認めます(創世記38章26節)。

この「正しい」は、ヘブライ語で「צָדְקָה מִמֶּנִּי(ツァドカー・ミンメニー)」と書かれています。
「ツァダク(צָדַק)」は「正義」「義」を意味する言葉。
ユダは、自分が果たすべき義務を果たさず、タマルがそれを補ったことを認めたのです。
彼女の行動は、決して褒められるものではないかもしれない。
でも、彼女は自分の命をかけて、義を貫いた。
そしてその子孫から、ダビデ王が生まれ、やがてメシアへとつながっていきます。

僕はこの物語を読むたびに、「まっすぐじゃない人生の中で、まっすぐに選ばれることもあるんだ」と思わされます。
ユダも、タマルも、決して完璧な人ではなかった。
でも、神の物語の中で、彼らは大切な役割を担っていきます。
僕たちもまた、失敗や後悔の中にいるときこそ、何か大きな物語の一部になっているのかもしれません。

これからも、そんな視点でモーセ五書を読み続けていきたいと思っています。
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ありがとうの循環 — 食卓の一言が神と隣人をつなぐ

こんにちは、石川尚寛です。
先日、友人たちと食卓を囲んでいるとき、ふと口にした「ありがとう」が場の空気を柔らかくしたのを覚えています。特別な出来事は何もなくて、ただ同じものを分け合ったというその事実だけで心が満たされる瞬間がありました。そのとき、なぜか申命記の一節が思い浮かんで、ページをめくってみたくなりました。

今回向き合ったのは申命記8章10節です。ヘブライ語の原文はこう書かれています。「וְכִי־תֹאכַל וְשָׂבָעְתָּ וּבֵרַכְתָּ אֶת־יְהוָה אֱלֹהֶיךָ עַל־הָאָרֶץ הַטֹּבָה׃」。直訳すれば「あなたが食べて満ち足りたとき、良き地のことであなたの神、主を祝福しなさい」となります。注目したいのは動詞 בָּרַךְ(バラフ)です。この語は単なる「感謝する」という意味に留まらず、「祝福する」「手を差し伸べる」「良きことを言い表す」といった幅のある働きを持ち、言葉が内側からの応答であり、関係を確認する行為であることを示しています。

僕がこの節から受け取った気づきの一つは、感謝の向きが神で終わらないということです。申命記は共同体の生活を語る書でもあり、食卓にある恵みは土を耕した人、穀物を運んだ人、料理してくれた人など多くの手によってもたらされています。神への「ありがとう」はまず恵みの源を見上げる行為ですが、同時にその恵みを自分の中で受け止め、次に隣人へと返していく流れをつくります。バラフが含む「祝福する」というニュアンスは、受け取ったものを祝福として留めず、何らかのかたちで返す働きを含んでいると感じました。

具体的に言うと、僕が食事の場で「ありがとう」と言うと、その一言は作ってくれた人に届きます。けれど言葉だけで終わらせると循環は止まってしまう。感謝が行動に移るとき、例えば次に会ったときに手伝う、材料を分ける、小さな気遣いを見せる、といった形で恵みが共同体の中を巡り続けます。申命記の全体的な文脈が「忘れないこと」を強く促すように、感謝は恵みの由来を思い起こす記憶の行為でもあります。神を祝福することで、僕はその恵みがどこから来たのかという物語を再確認し、その物語が隣人への具体的な配慮へと翻訳されていくのです。

このことを考えると、感謝は単なる礼儀や義務ではなく、生活を貫く倫理の一部のように思えてきます。小さな「ありがとう」が、僕の内側を整え、次にするべき行動を静かに示してくれる。だから僕は、感謝を習慣にしたいと思うし、その習慣が神と隣人をつなぐ道になると信じています。ただ一つ問いを残すなら、次にあなたが「ありがとう」と言うとき、その言葉は誰に届き、どんな行動につながるだろうかということです。僕はこれからも食卓の些細な瞬間を大切にして、神と隣人への感謝を日常の行いで返していきたいです。気になった方は、ぜひAmazonで『創世記 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

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🌟「自分のかたちに」ってどういうこと?神様が私たちに込めた願いを考えてみた

こんにちは、石川尚寛です。
最近、ふと空を見上げる時間が長くなりました。澄んだ青空とか、夕焼けに染まる雲とか、本当にきれいで心が洗われますよね。でも同時に、こんなに壮大で美しい世界の中にいる自分は、一体何のためにここにいるんだろう、って考えちゃう時があるんです。誰もが一度はそんな気持ちになるんじゃないかな。毎日の生活に追われていると、つい自分の存在価値とか、人生の目的とかを見失いがちになってしまう。
そんな時に、僕が心を寄せるのが聖書の言葉です。今回は、モーセ五書の中でも一番最初の創世記を開いてみました。
僕たちが、何のために、誰によって造られたのかを教えてくれる、とても大切な言葉です。
特に心に響いたのは、この章節です。

> 創世記 1章26節
> 「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちに、われわれの似姿に造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」」
>
> 創世記 1章27節
> 「神は人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女に彼らを創造された。」
>
神様が、僕たち人間を「自分のかたち」に造られた、というんです。これって本当にすごいことですよね。

「かたち」と訳されているヘブライ語は「ツェレム」(צֶלֶם)という言葉です。これは、単なる「形」という意味だけでなく、「像」とか「似姿」という意味も持っています。現代の言葉で言うなら、肖像画とか、鋳型から作った像のようなイメージでしょうか。
つまり、僕たちは単なる生き物じゃなくて、**神様の「像」**として、この世界に置かれたっていうことなんです。

じゃあ、神様の「像」として造られた僕たちには、どんな願いが込められているんだろう。神様は、僕たちを通して何を表現したかったんだろう。
僕なりに考えてみたのは、神様が僕たち一人ひとりを、ご自身の愛や創造性、そしてこの世界に対する配慮といった、目に見えない神様の性質を映し出す鏡のような存在として造ってくださったんじゃないか、ということです。

僕たちは神様と同じ形を持っているわけではないけれど、神様と関係を持つことができる、愛し合うことができる、そして世界を美しく治めるという神様の役割を担うことができる。これが「ツェレム」に込められた、神様の大きな願いなんじゃないかなと感じました。
日常の中で、誰かに優しくなれた時、美しいものに感動した時、何か新しいものを生み出せた時、それは僕たちの内側にある**「ツェレム」が輝いている瞬間**なのかもしれません。
僕たちは誰かのコピーでもなく、無意味な存在でもありません。神様の願いと目的が深く刻み込まれた、唯一無二の存在です。

僕もこれからも、この言葉の意味を深く味わいながら、自分がこの世界にいる意味、神様が僕に込めてくださった願いは何だろうと、日々問いかけ続けていきたいと思っています。
一人でも多くの方が、この創世記の言葉を通して、ご自身の存在の尊さに気づき、神様との関係を意識するきっかけになれば嬉しいです。
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「罪深いが神に選ばれた人たち」シリーズ①:血に染まった手が、神に近づく手になるまで──レビの話

こんにちは、石川尚寛です。
先日、ある地域の相談役の方と話す機会がありました。
若い頃に大きな過ちを犯したというその人は、今では誰よりも人の痛みに寄り添っていて、
「なぜこの人が、こんなにも優しいのか」と、僕は静かに驚きました。
そのとき、レビ族のことがふと頭に浮かんだんです。

創世記34章。
レビと兄シメオンは、妹ディナが辱められたことに激怒し、
町の男たちを剣で討ちます。
ヤコブはその行為に深く困り、「あなたが私を困らせた」と叱責します(創世記34:30)。
レビという名前は「לֵוִי」(Levi)──「結びつく」「つながる」という意味。
でもこの時点では、むしろ断絶の象徴のように見えました。

ところが、出エジプト記32章。
金の子牛事件のあと、モーセが「主の側に立つ者はここに来よ」と呼びかけると、
レビ族が応じます。
彼らは剣を取って、偶像礼拝に加担した者たちを討ちます。
その結果、神はレビ族を祭司として選びます。

この流れを読んでいると、
「血に染まった手が、なぜ神に仕える手になるのか」
という問いが浮かびます。
僕はそこに、神のまなざしの深さを感じます。
過去の罪が消えるわけではない。
でも、その痛みを知っているからこそ、
神の側に立つことができるのかもしれない。

僕自身も、過去の失敗や後悔を抱えながら生きています。
でもそれが、誰かの痛みに気づく力になるなら、
それは神が用いてくださる道なのかもしれない。
そんなふうに思えるようになりました。

このシリーズ、次回はカインを取り上げる予定です。
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「損をしたくない」と思ってしまう、そんな僕の心に響いた言葉

こんにちは、石川尚寛です。
急に寒くなってきましたが、みなさん風邪など引かれていませんか。僕は先日、友人のためにちょっとしたプレゼントを選んでいたときのことです。素敵なものを見つけて「これだ!」と思った瞬間に、ふと値札を見てしまい、一瞬だけ手が止まってしまったんです。

「あ、予算より少し高いな」
そう思った途端、さっきまでの「喜んでもらいたい」という純粋な気持ちの横に、「自分の財布が痛む」という計算高い自分が顔を出しました。結局そのプレゼントを買ったのですが、帰り道、あの一瞬の躊躇(ちゅうちょ)がなんだか恥ずかしくて、少し落ち込んでしまったんです。

人に何かを与えるとき、どうしても「減る」とか「損をする」と考えてしまう。そんな自分の心の狭さに直面したとき、ふと開きたくなったのが「申命記(しんめいき)」の言葉でした。
申命記は、エジプトを出た民が約束の地に入る直前に語られた、とても熱のこもったメッセージの記録です。その中の15章10節に、今の僕の心を見透かしたような言葉がありました。

そこにはこう書かれています。「彼に必ず与えなければならない。与えるとき、惜しんではならない」と。
この言葉を読んだとき、僕は最初、「やっぱりケチな心はいけないんだな」と反省するだけでした。でも、ヘブライ語の原文を調べてみたとき、もっと深い、温かいメッセージが隠されていることに気づいたんです。

この箇所で使われている「与える」という言葉は、ヘブライ語で「ナタン(נתן)」と言います。
ヘブライ語は右から左に読みますが、この「ナタン(Nun-Tav-Nun)」という単語、実は右から読んでも左から読んでも同じ「ナタン」になる回文になっているんです。
これが何を意味しているのかというと、「与えることは、一方通行ではない」ということです。出したものは、必ず巡り巡って自分の元へと帰ってくる。ヘブライ語の文字そのものが、エネルギーの循環を表しているんですね。

僕がレジの前で感じた「減ってしまう」という感覚は、実は錯覚だったのかもしれません。自分の手から離れたとしても、それは失われたのではなく、大きな巡りの中に解き放たれたということ。
さらに聖書は、「与えるとき、惜しんではならない」と続きます。ここの「惜しむ」という言葉は、直訳すると「心が悪くなってはいけない」や「心が痛んではいけない」というニュアンスがあります。

神様は、僕たちが無理をして自己犠牲で与えることを求めているわけではないんだな、と感じました。僕が「痛いな」「損だな」と思いながら嫌々差し出すことを、神様は望んでおられない。むしろ、与えることによって生まれる「ナタン(循環)」の喜びを、僕自身にも味わってほしいと願われているような気がします。

あの時、値札を見て躊躇してしまった僕ですが、この「ナタン」の形を思い浮かべると、少し勇気が湧いてきます。
握りしめれば、そこで流れは止まってしまう。でも、手を開いて差し出せば、そこから豊かな循環が始まる。

お金や物だけじゃなく、時間や、優しい言葉や、笑顔もきっと同じですね。今日は誰かに何かを「ナタン」できるチャンスがあるかな。そんなふうに考えると、なんでもない一日が、宝探しのようなワクワクした時間に変わるような気がします。

僕もまだまだ、自分のことばかり考えてしまう未熟な人間ですが、聖書の言葉という鏡に心を映しながら、少しずつ、手のひらを広げられる自分になっていきたいなと思います。
このブログを通して、そんな気づきの旅をこれからも一緒に歩んでいただけたら嬉しいです。

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日常の小さな「よりどころ」と十戒の第一の言葉

こんにちは、石川尚寛です。
最近、スマホの充電が切れそうになると妙に落ち着かなくなる自分に気づきました。外出先でバッテリー残量が10%を切ると、なぜか心まで不安定になる。そんな時に「僕は何によりどころを置いているんだろう」と考えさせられました。便利さや安心を支えてくれるものに頼るのは自然なことだけれど、そこに心が縛られてしまうと、自分の中心が揺らぐような感覚があるんです。その思いから、出エジプト記の十戒の第一の言葉に心が向きました。

出エジプト記20章3節にはこうあります。
「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」
ヘブライ語原文では「לֹא־יִהְיֶה לְךָ אֱלֹהִים אֲחֵרִים עַל־פָּנָי」(Lo yihyeh lekha elohim acherim al panay)。直訳すると「わたしの顔の前に、他の神々を持ってはならない」というニュアンスになります。「顔の前に」という表現が印象的で、まるで神と向き合う場に、別のものを持ち込んではならない、と語りかけているように感じました。

僕自身、この言葉を「信仰のルール」としてではなく、「心の中心をどこに置くか」という問いかけとして受け取っています。スマホや仕事や人間関係、どれも大切だけれど、それらが僕の心の最前列に座ってしまうと、すぐに揺らいでしまう。第一の戒めは、そんな揺らぎを静かに映し出してくれる鏡のように思えました。

この章節を読むと、自分の生活の中で「顔の前」に置いてしまっているものは何だろう、と自然に考えさせられます。僕にとっては安心や便利さだったり、時には評価や成果だったり。そうしたものを少し横に置いてみると、心が軽くなる瞬間がある。その余白の中で、僕は「神と共に生きる」という言葉の意味を少しずつ探しているのかもしれません。

これからも、モーセ五書を一つひとつ丁寧に読みながら、自分の生活に響く言葉を見つけていきたいと思います。気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

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顔をあげる小さな勇気──創世記4章からの気づき

こんにちは、石川尚寛です。
最近、人とのやり取りの中で、自分の思いが伝わらなかったり、誤解されてしまったりすると、つい心が沈んでしまうことがあります。そんな時、僕はどうしても「なぜうまくいかないんだろう」と憤りのような感情を抱いてしまいます。顔を伏せてしまうような気持ちになるのです。

その感情に向き合っている時に、創世記4章6–7節の言葉に心がとまりました。カインに語りかける主の言葉です。
「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

ここで使われている「罪」という言葉は、ヘブライ語で ḥaṭṭā’t(ハッタート)です。これは「的を外す」というニュアンスを持っています。つまり、狙ったところから外れてしまう状態を指しているのです。僕はこのニュアンスに触れた時、日常の中で「うまくいかない」と感じる瞬間も、必ずしも自分が悪いわけではなく、ただ的を外してしまっただけなのかもしれないと気づきました。

また「それを治めなければならない」という部分に使われている動詞は māšal(マーシャル)で、「支配する」「統べる」という意味があります。罪や憤りは僕たちの心に寄り添うようにやってくるけれど、それに支配されるのではなく、むしろ自分がそれを治める立場にあるのだと示されているのです。

この箇所を読むと、罪が軽く見えるように感じることもあります。けれど、実際には「罪そのもの」ではなく「罪に向かう心の傾き」が描かれているのだと思います。小さな憤りや嫉妬に心を奪われる前に、顔をあげる勇気を持てるかどうか。その分岐点に立たされているのがカインであり、僕自身の日常にも重なるのです。

僕はこの言葉から、「顔をあげる」という行為そのものが日常の中での小さな勇気なのだと学びました。憤りや落ち込みに支配されそうになる時、ほんの少し顔をあげるだけで、次の一歩が見えてくる。罪は軽いものではなく、芽生える前の心の動きから始まるのだと気づかされます。

これからも創世記を丁寧に読みながら、自分の心の動きを見つめていきたいと思います。気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

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「荒野にて記録された民数記の意味」

こんにちは、石川尚寛です。
この前、ふと立ち止まって「自分はいまどこにいるんだろう」と考える瞬間がありました。日常の中で迷いを感じるとき、まるで荒野に立っているような心細さがあるものです。そんな気持ちが、民数記を読み返すきっかけになりました。

民数記の原題はヘブライ語で「בְּמִדְבַּר」(ベミドバル)、直訳すると「荒野にて」という意味です。日本語では「民数記」と呼ばれ、数えることに焦点が当てられていますが、実際には荒野での人々の歩みが中心に描かれています。たとえば民数記14章9節には「אַךְ בַּיהוָה אַל־תִּמְרֹדוּ וְאַתֶּם אַל־תִּירְאוּ אֶת־עַם הָאָרֶץ」(アク・バアドナイ・アル・ティムルドゥ・ヴァアテム・アル・ティルウ・エト・アム・ハアレツ)とあります。「ただ主に逆らってはならない。地の民を恐れてはならない」という意味です。荒野で恐れに包まれる人々に向けて、恐れを超えて歩むことが示されています。

僕はこの言葉に触れながら、荒野とは外の世界だけでなく、自分の心の中にもあるのだと感じました。迷いや孤独、不安に立たされるとき、それは荒野を歩いているようなものです。民数記が記録されたのは、そんな荒野の中で人々がどう生き、どう希望を見出したかを未来に伝えるためだったのではないでしょうか。数えること以上に、「荒野にて」という題が示すように、人間の心の旅路がそこに刻まれているように思えます。

これからも僕は、荒野に立たされるような瞬間を恐れずに、その中で自分の心を見つめ直していきたいです。
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自分を嘆く声が、神に届くとき

こんにちは、石川尚寛です。
この前、仕事で大きな失敗をしてしまいました。誰かを傷つけたわけではないけれど、自分の不注意で台無しになったことがあり、帰り道で「なんで僕はこんなに弱いんだろう」と心の中でつぶやいていました。そのとき、ただ落ち込むだけではなく、自分自身を嘆くことが神に向かう声になるのではないかと感じました。そこから、モーセ五書のある一節に心が向かいました。

民数記11章14節で、モーセは「この民を一人で担うことはできません」と嘆いています。ヘブライ語原文では「לֹא־אוּכַל אָנֹכִי לְבַדִּי」(ロ・ウカル・アノキ・レヴァディ)、「僕一人ではできません」という意味です。これは民の不満に押しつぶされそうになったモーセの叫びであり、自分自身の限界を嘆く言葉です。

僕はこの言葉に触れたとき、自分を嘆くことは決して無駄ではないと思いました。むしろ、それは「僕は完全ではない」という正直な告白であり、「あなたに助けてほしい」という祈りの始まりなのだと感じます。自分を責めるだけの嘆きは閉じてしまいますが、神に向かって嘆くとき、それは開かれた声になるのだと思います。

日常の中で、自分の弱さに気づいて嘆く瞬間は誰にでもあるはずです。その声をただ自分の中で消してしまうのではなく、神に向けて差し出すことができたら、そこに新しい歩みが生まれるのかもしれません。嘆きは終わりではなく、始まりのしるしなのだと、この一節から学びました。

これからも、自分の弱さを隠さずに嘆きを言葉にしていく勇気を持ちたいと思います。気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

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「神様を恐れる」って、怖いことだと思っていました。

こんにちは、石川尚寛です。
皆さんは、誰かにじっと見られていると緊張してしまうことってありませんか。
僕は以前、車の運転をしている時にパトカーとすれ違うと、何も悪いことはしていないのに、なぜかドキッとしてハンドルを握る手に力が入ってしまうことがありました。
「怒られるんじゃないか」「罰を受けるんじゃないか」

そんなふうに、相手の顔色をうかがってビクビクしてしまうこと。僕は長い間、聖書に書かれている「神を恐れる」という言葉も、これと同じような意味だと思っていたんです。
神様に見張られていて、少しでも間違ったら叱られる。だから震えながら従う。そんなイメージを持っていました。

でも、モーセ五書、特に「創世記」を漫画にするためにじっくりと読み込んでいくうちに、僕の中でのそのイメージが少しずつ変わっていったんです。
今日は、僕が創世記の物語を通して出会った、少し新しい「恐れ」の感覚について、皆さんと分かち合えたら嬉しいなと思います。

僕がハッとさせられたのは、創世記22章12節の言葉です。
ここは、アブラハムという人が、自分の最愛の一人息子イサクを神様に捧げようとする、とても緊迫した場面です。その直前で神様が彼を止め、こう言われます。
「あなたが神を恐れる者であることを、私は今、知った」
この「恐れる」という言葉。

ヘブライ語の原文では「ヤレー(yare)」という言葉が使われています。
確かにこれには「怖がる」という意味もあるのですが、深く調べていくと、単なる恐怖心とは少し違うニュアンスが見えてきました。
それは「畏敬(いけい)」、つまり、あまりにも偉大な存在を前にした時に、自然と頭が下がったり、息をのんだりするような感覚です。

面白いことに、この場面でアブラハムは、この場所を「アドナイ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付けます。この「イルエ」という言葉は「見る」という意味を持っています。
実はヘブライ語では、「恐れる(yare)」と「見る(ra’ah)」という言葉は、音がとても似ていて、深いところでつながっているそうなんです。
僕はここで、ふと気づかされました。

アブラハムにとって「神を恐れる」とは、お化けや猛獣に怯えるようなことではなかったんじゃないか。
そうではなくて、「神様が今、私をしっかりと見ておられる」ということを、全身で感じることだったのではないか、と。
僕たちは日常生活の中で、誰も見ていないところでは、つい気が緩んだり、時には自分勝手な振る舞いをしてしまいそうになります。逆に、人目があるところでは、よく見られようと背伸びをしてしまいます。

でも、アブラハムの姿を見ていると、彼は誰がどう思おうと関係なく、ただ神様という「たった一人の方」の視線を意識して生きていたように思うんです。
それは、監視カメラで見張られているような冷たい視線ではありません。
自分の最も大切なものを手放してでも信頼できるような、そんな圧倒的な愛を持った方が、自分のすべてを「見て」いてくださる。
その視線を常に感じて生きること。

神様の存在を、目の前の現実よりも「リアル」に感じること。
それが、聖書が教えてくれる「神を恐れる」ということの正体なのかもしれない、と僕は思うようになりました。
そう考えると、なんだか肩の力が抜けていくような気がします。
ビクビクして縮こまるのではなく、むしろ「神様が見ていてくださるから大丈夫だ」と、背筋がスッと伸びるような感覚です。

誰にも理解されないような苦しい時も、孤独を感じる時も、神様だけは見ていてくださる。
その安心感の中で、嘘をつかず、誠実に生きていこうとすること。それが、僕たちが今日からできる「神を恐れる」方法なのかもしれません。
僕自身、まだまだ人の目ばかり気にしてしまう弱いところがあります。
だからこそ、アブラハムのように、神様の愛ある眼差しだけを意識して歩んでいきたい。そう願いながら、今日も聖書の言葉に向き合っています。

皆さんは、今日、どんな時に神様の視線を感じるでしょうか。
もし、この創世記の物語をもっと深く味わってみたいなと思われた方は、僕が描いた漫画も読んでみてください。
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小さな不安から見えた「信じる」ということ

こんにちは、石川尚寛です。
最近、夜にふと目が覚めてしまうことがありました。理由は特にないのですが、静かな部屋の中で「この先どうなるんだろう」と漠然とした不安が浮かんでしまうのです。眠れない時間は長くはないのですが、その瞬間だけは心が揺れてしまいます。そんな時に思い出したのが、創世記のある場面でした。

創世記15章6節。「アブラハムは主を信じた。すると、それが彼の義と認められた。」
この短い一節に、僕は立ち止まらされました。ヘブライ語原文では「וְהֶאֱמִן בַּיהוָה」(vehe’emin b’Adonai)と書かれています。「信じた」という動詞は「アーマン(אָמַן)」から来ていて、もともとは「支える」「揺るがない」という意味を持っています。つまり、アブラハムが神を信じたというのは、ただ心の中で「そうだ」と思ったのではなく、存在そのものを委ねて支えられることを選んだ、というニュアンスがあるのです。

僕はこの言葉に触れて、自分の不安が消えるわけではないけれど、「支えられている」という感覚を思い出しました。信じるとは、未来を完全に理解することではなく、揺れる心をそのまま差し出して、支えに身を置くことなのかもしれません。アブラハムもまた、約束がすぐに見えたわけではなく、ただ「信じる」という行為を選んだ。その姿に、僕自身の小さな夜の不安が重なって見えました。

この一節を読むたびに、僕は「信じる」ということを新しく問い直しています。信じるとは、方法ではなく、日々の中で「支えられている」と感じる瞬間を受け取ることなのだと。まだ答えは出ていませんが、その問いを持ち続けること自体が、僕にとっての学びになっています。

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神を愛するってどういうこと?申命記からの小さな気づき

こんにちは、石川尚寛です。
この前、夜遅くに帰宅したとき、家の灯りがぽっと迎えてくれる瞬間がありました。誰もいない部屋なのに、不思議と安心して「帰ってきた」と思える。小さな灯りなのに、心が支えられるような感覚でした。その経験が、なぜか申命記の言葉に心を向けさせてくれました。

申命記6章5節には「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とあります。ヘブライ語原文では「בכל־לבבך ובכל־נפשך ובכל־מאדך」(ベコル・レヴァヴカ、ウベコル・ネフェシュカ、ウベコル・メオデカ)と書かれています。ここで使われている三つの言葉は、それぞれ人間存在の異なる層を表していると知りました。

「心(levav)」は古代ヘブライ語では感情だけでなく、思考や意志の中心を意味します。つまり、考えや選択のすべてを神に向けること。
「魂(nefesh)」はもともと「息」や「生命」を表し、存在そのものを指します。命そのものを神に委ねること。
「力(me’od)」は直訳すると「非常に」という副詞ですが、ここでは持てる力や資源、行動を意味します。日常の行動や具体的な力を神に向けること。

この三つを並べることで、申命記は「部分的な愛ではなく、存在のすべてを神に向ける」ことを強調しているのだと感じました。僕にとっては、灯りに安心を覚えたあの瞬間のように、全存在で「ここにいる」と応答することが、神を愛することの小さな入り口なのかもしれません。

まだ僕はその方法を完全に理解しているわけではありません。でも、この聖句を通して、愛は感情だけでなく、考え方、命の使い方、日々の行動まで含まれるんだと少しずつ学んでいます。これからも申命記を読みながら、自分の心と行動を重ね合わせる練習を続けていきたいと思います。気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

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片づけられない僕と創世記の言葉

こんにちは、石川尚寛です。
部屋の片隅に積み上げた本や紙袋を見て、ため息をつくことがあります。買ったものをうまく使い切れず、気づけば散らかってしまう。浪費癖と整理整頓の苦手さは、僕の日常の悩みのひとつです。そんな自分を見つめているとき、ふと創世記のある言葉に心が向かいました。

創世記2章15節には「主なる神は人を取り、エデンの園に置いてそれを耕し、守らせた」とあります。ヘブライ語では「לעבדה ולשמרה」(le’ovdah u’leshomrah)と書かれています。「avodah」は「仕える」「耕す」という意味を持ち、「shamar」は「守る」「整える」というニュアンスを含みます。人はただ園に住むだけではなく、耕し、守り、秩序を保つ使命を与えられていたのです。

僕はこの言葉を読むと、自分の散らかった部屋が小さな「園」に見えてきます。浪費してしまう癖も、整理できない弱さも、神の前では隠せない現実です。でも「耕し、守る」という言葉は、完璧に片づけることを求めているのではなく、「少しずつ整える」方向へ僕を招いているように感じます。余計なものを買わないことも、散らかった机を一枚ずつ片づけることも、園を守る小さな行為なのだと思うと、心が少し軽くなります。

浪費癖や整理整頓の苦手さは、僕にとって「呪われた地」のような抵抗です。でも創世記の言葉は、その抵抗の中で「なお耕し、なお守れ」と響いてきます。僕はその響きを受け止めながら、今日も少しずつ片づけを続けたいと思います。

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