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神は、なぜ「行け」と言ったのか?アブラハムに隠された人間性の核心

神に選ばれる人間って、どんな人だと思いますか?

特別な能力を持ったスーパーヒーロー?
何も恐れない完璧な聖人?

僕が創世記を読んでいて、強く感じたのは、そうじゃないかもしれないということです。
神が選んだ最初の人物、アブラハムの物語をひもとくと、そこには意外な「人間らしさ」が浮かび上がってきます。

今日、僕が注目したいのは、彼の人生が大きく動き出した、たった一節です。

創世記12章1節。
神がアブラハム(当時はアブラム)に告げた、あの言葉です。

「主はアブラムに言われた。『あなたはあなたの生まれ故郷、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。』」(創世記12:1)

ヘブライ語で「行きなさい」は 「レフ・レハー(לֶךְ-לְךָ)」 です。
この表現、実はとても深いんです。
直訳すると「あなた自身のために、行きなさい」という意味合いを含むと言われます。

神は命令しているだけじゃない。
「あなた自身のための旅だよ」と、個人的で深い呼びかけをしているような響きがあるんです。

僕はここで考えさせられました。
神は、アブラハムの何を見て、この決定的な旅へと招いたのか?

アブラハムは、この時点では何も成し遂げていません。
大きな信仰の告白をした記録も、特にありません。
ただ、75歳という齢で、見知らぬ地へ「行く」という応答をした。その一点です。

彼の特徴は、完璧な「強い信仰」にあったのではなく、むしろ、不完全だけど「動き出せる」姿勢にあったのではないでしょうか。
神の声を聞き、不安や迷いがあったに違いないのに(聖書はその心情を詳細には書いていませんが)、それでも従い、一歩を踏み出した。

それが、神が彼の内に見出した「人間性」ではなかったかと、僕は思うのです。

神は、すべての答えを持った完璧な人間ではなく、不完全だけど、共に歩み始めようとする者を、ご自身の計画のパートナーとして選ばれた。
アブラハムの物語は、そのことを静かに、そして力強く教えてくれている気がします。

僕自身、自分の欠点や不安ばかりが目について、足踏みしてしまうことがあります。
でもアブラハムのこの一歩は、「すべてが整わなくても、まず応答する一歩を踏み出してみる」ことの尊さを思い起こさせてくれます。
神は、その一歩を待っておられるのかもしれません。

このアブラハムの旅の続きや、モーセ五書に描かれる神と人の驚くべき関係は、僕が漫画で描かせていただいています。
聖書の世界を、より身近に、視覚的に感じていただけたらという思いで、一コマ一コマを描いています。

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僕も、この壮大な物語を学びながら、自分自身の「一歩」について、考え続けたいと思います。

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#アブラハムの一歩
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まっすぐじゃない人生の中で、まっすぐに選ばれることもある

こんにちは、石川尚寛です。
先日、ある友人と話していて、「人生って、まっすぐ進めたことなんて一度もないよね」という言葉が印象に残りました。
たしかに、思い描いた通りに進むことなんて、ほとんどない。
むしろ、うまくいかなかったことや、後悔している選択のほうが、心に残っていたりします。
でも、そんな「うまくいかなかった道」の先で、思いがけず誰かに出会ったり、大切なものを見つけたりすることもある。
その話を聞いて、ふと、創世記38章のユダとタマルの物語を思い出しました。

創世記38章は、ヨセフ物語の途中に突然挿入される、ちょっと異質な章です。
ユダは兄弟たちとヨセフを売ったあと、家族から離れてカナン人の女性と結婚し、三人の息子をもうけます。
長男エルの妻となったのが、タマル。けれどエルは「主の目に悪」とされて死に、次男オナンもまた、兄の名を継がせる役目を果たさずに命を落とします。
ユダは三男シェラが成長するまでタマルを実家に帰しますが、やがて彼女を忘れてしまいます。

タマルは、自分の未来が閉ざされたまま放置されていることに気づきます。
そこで彼女は、顔を覆い、遊女のふりをしてユダを誘惑し、子を宿します。
やがて妊娠が明らかになると、ユダは「火あぶりにせよ」と言い放ちますが、タマルが自分の子を身ごもったと知ると、「彼女のほうが私より正しい」と認めます(創世記38章26節)。

この「正しい」は、ヘブライ語で「צָדְקָה מִמֶּנִּי(ツァドカー・ミンメニー)」と書かれています。
「ツァダク(צָדַק)」は「正義」「義」を意味する言葉。
ユダは、自分が果たすべき義務を果たさず、タマルがそれを補ったことを認めたのです。
彼女の行動は、決して褒められるものではないかもしれない。
でも、彼女は自分の命をかけて、義を貫いた。
そしてその子孫から、ダビデ王が生まれ、やがてメシアへとつながっていきます。

僕はこの物語を読むたびに、「まっすぐじゃない人生の中で、まっすぐに選ばれることもあるんだ」と思わされます。
ユダも、タマルも、決して完璧な人ではなかった。
でも、神の物語の中で、彼らは大切な役割を担っていきます。
僕たちもまた、失敗や後悔の中にいるときこそ、何か大きな物語の一部になっているのかもしれません。

これからも、そんな視点でモーセ五書を読み続けていきたいと思っています。
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「神様を恐れる」って、怖いことだと思っていました。

こんにちは、石川尚寛です。
皆さんは、誰かにじっと見られていると緊張してしまうことってありませんか。
僕は以前、車の運転をしている時にパトカーとすれ違うと、何も悪いことはしていないのに、なぜかドキッとしてハンドルを握る手に力が入ってしまうことがありました。
「怒られるんじゃないか」「罰を受けるんじゃないか」

そんなふうに、相手の顔色をうかがってビクビクしてしまうこと。僕は長い間、聖書に書かれている「神を恐れる」という言葉も、これと同じような意味だと思っていたんです。
神様に見張られていて、少しでも間違ったら叱られる。だから震えながら従う。そんなイメージを持っていました。

でも、モーセ五書、特に「創世記」を漫画にするためにじっくりと読み込んでいくうちに、僕の中でのそのイメージが少しずつ変わっていったんです。
今日は、僕が創世記の物語を通して出会った、少し新しい「恐れ」の感覚について、皆さんと分かち合えたら嬉しいなと思います。

僕がハッとさせられたのは、創世記22章12節の言葉です。
ここは、アブラハムという人が、自分の最愛の一人息子イサクを神様に捧げようとする、とても緊迫した場面です。その直前で神様が彼を止め、こう言われます。
「あなたが神を恐れる者であることを、私は今、知った」
この「恐れる」という言葉。

ヘブライ語の原文では「ヤレー(yare)」という言葉が使われています。
確かにこれには「怖がる」という意味もあるのですが、深く調べていくと、単なる恐怖心とは少し違うニュアンスが見えてきました。
それは「畏敬(いけい)」、つまり、あまりにも偉大な存在を前にした時に、自然と頭が下がったり、息をのんだりするような感覚です。

面白いことに、この場面でアブラハムは、この場所を「アドナイ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付けます。この「イルエ」という言葉は「見る」という意味を持っています。
実はヘブライ語では、「恐れる(yare)」と「見る(ra’ah)」という言葉は、音がとても似ていて、深いところでつながっているそうなんです。
僕はここで、ふと気づかされました。

アブラハムにとって「神を恐れる」とは、お化けや猛獣に怯えるようなことではなかったんじゃないか。
そうではなくて、「神様が今、私をしっかりと見ておられる」ということを、全身で感じることだったのではないか、と。
僕たちは日常生活の中で、誰も見ていないところでは、つい気が緩んだり、時には自分勝手な振る舞いをしてしまいそうになります。逆に、人目があるところでは、よく見られようと背伸びをしてしまいます。

でも、アブラハムの姿を見ていると、彼は誰がどう思おうと関係なく、ただ神様という「たった一人の方」の視線を意識して生きていたように思うんです。
それは、監視カメラで見張られているような冷たい視線ではありません。
自分の最も大切なものを手放してでも信頼できるような、そんな圧倒的な愛を持った方が、自分のすべてを「見て」いてくださる。
その視線を常に感じて生きること。

神様の存在を、目の前の現実よりも「リアル」に感じること。
それが、聖書が教えてくれる「神を恐れる」ということの正体なのかもしれない、と僕は思うようになりました。
そう考えると、なんだか肩の力が抜けていくような気がします。
ビクビクして縮こまるのではなく、むしろ「神様が見ていてくださるから大丈夫だ」と、背筋がスッと伸びるような感覚です。

誰にも理解されないような苦しい時も、孤独を感じる時も、神様だけは見ていてくださる。
その安心感の中で、嘘をつかず、誠実に生きていこうとすること。それが、僕たちが今日からできる「神を恐れる」方法なのかもしれません。
僕自身、まだまだ人の目ばかり気にしてしまう弱いところがあります。
だからこそ、アブラハムのように、神様の愛ある眼差しだけを意識して歩んでいきたい。そう願いながら、今日も聖書の言葉に向き合っています。

皆さんは、今日、どんな時に神様の視線を感じるでしょうか。
もし、この創世記の物語をもっと深く味わってみたいなと思われた方は、僕が描いた漫画も読んでみてください。
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小さな不安から見えた「信じる」ということ

こんにちは、石川尚寛です。
最近、夜にふと目が覚めてしまうことがありました。理由は特にないのですが、静かな部屋の中で「この先どうなるんだろう」と漠然とした不安が浮かんでしまうのです。眠れない時間は長くはないのですが、その瞬間だけは心が揺れてしまいます。そんな時に思い出したのが、創世記のある場面でした。

創世記15章6節。「アブラハムは主を信じた。すると、それが彼の義と認められた。」
この短い一節に、僕は立ち止まらされました。ヘブライ語原文では「וְהֶאֱמִן בַּיהוָה」(vehe’emin b’Adonai)と書かれています。「信じた」という動詞は「アーマン(אָמַן)」から来ていて、もともとは「支える」「揺るがない」という意味を持っています。つまり、アブラハムが神を信じたというのは、ただ心の中で「そうだ」と思ったのではなく、存在そのものを委ねて支えられることを選んだ、というニュアンスがあるのです。

僕はこの言葉に触れて、自分の不安が消えるわけではないけれど、「支えられている」という感覚を思い出しました。信じるとは、未来を完全に理解することではなく、揺れる心をそのまま差し出して、支えに身を置くことなのかもしれません。アブラハムもまた、約束がすぐに見えたわけではなく、ただ「信じる」という行為を選んだ。その姿に、僕自身の小さな夜の不安が重なって見えました。

この一節を読むたびに、僕は「信じる」ということを新しく問い直しています。信じるとは、方法ではなく、日々の中で「支えられている」と感じる瞬間を受け取ることなのだと。まだ答えは出ていませんが、その問いを持ち続けること自体が、僕にとっての学びになっています。

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鼻から始まるいのちの瞑想

こんにちは、石川尚寛です。
最近、朝の冷たい空気を吸い込むときに、ふと「鼻」というものの不思議さを感じました。眠気が残る頭も、鼻から入る空気で少しずつ目覚めていく。呼吸はいつも無意識にしているのに、鼻を意識すると「生きている」という感覚が急に鮮やかになるのです。そんな体験から、創世記のある一節に心が向かいました。

創世記2章7節。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」
ヘブライ語では「アダム」(אָדָם)が「土」(אֲדָמָה)から形づくられ、「鼻」(אַף)に「息」(נִשְׁמַת חַיִּים)が吹き込まれると記されています。ここで強調されているのは、鼻を通して命が宿るということ。僕はこの表現に、ただの身体的な描写以上の意味を感じました。鼻は、外からの空気と内なる存在をつなぐ場所。そこに神の息が触れることで、人は「生きた者」(נֶפֶשׁ חַיָּה)となったと語られています。

この聖句を読んでいると、自然に鼻に集中する瞑想を試したくなります。呼吸を数えるのではなく、鼻を通る空気そのものに意識を置く。冷たさや温かさ、通り抜ける感覚をただ感じる。すると、自分の内に「息が与えられている」という事実が静かに広がっていきます。僕にとってそれは、神と共に生きることを思い出す小さな目覚めのようでした。

この気づきは、何かを教えるというより、自分自身の驚きに近いものです。鼻を意識するだけで、創世記の言葉が身体の中で響いてくる。人は土から造られた存在でありながら、息を受けて生きる者となった。その単純な事実が、日常の呼吸を少し特別なものにしてくれるのです。

これからも僕は、この「鼻に吹き込まれた息」という表現を手がかりに、自分の生き方を見直していきたいと思います。気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

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🌟「自分のかたちに」ってどういうこと?神様が私たちに込めた願いを考えてみた

こんにちは、石川尚寛です。
最近、ふと空を見上げる時間が長くなりました。澄んだ青空とか、夕焼けに染まる雲とか、本当にきれいで心が洗われますよね。でも同時に、こんなに壮大で美しい世界の中にいる自分は、一体何のためにここにいるんだろう、って考えちゃう時があるんです。誰もが一度はそんな気持ちになるんじゃないかな。毎日の生活に追われていると、つい自分の存在価値とか、人生の目的とかを見失いがちになってしまう。
そんな時に、僕が心を寄せるのが聖書の言葉です。今回は、モーセ五書の中でも一番最初の創世記を開いてみました。
僕たちが、何のために、誰によって造られたのかを教えてくれる、とても大切な言葉です。
特に心に響いたのは、この章節です。

> 創世記 1章26節
> 「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちに、われわれの似姿に造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」」
>
> 創世記 1章27節
> 「神は人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女に彼らを創造された。」
>
神様が、僕たち人間を「自分のかたち」に造られた、というんです。これって本当にすごいことですよね。

「かたち」と訳されているヘブライ語は「ツェレム」(צֶלֶם)という言葉です。これは、単なる「形」という意味だけでなく、「像」とか「似姿」という意味も持っています。現代の言葉で言うなら、肖像画とか、鋳型から作った像のようなイメージでしょうか。
つまり、僕たちは単なる生き物じゃなくて、**神様の「像」**として、この世界に置かれたっていうことなんです。

じゃあ、神様の「像」として造られた僕たちには、どんな願いが込められているんだろう。神様は、僕たちを通して何を表現したかったんだろう。
僕なりに考えてみたのは、神様が僕たち一人ひとりを、ご自身の愛や創造性、そしてこの世界に対する配慮といった、目に見えない神様の性質を映し出す鏡のような存在として造ってくださったんじゃないか、ということです。

僕たちは神様と同じ形を持っているわけではないけれど、神様と関係を持つことができる、愛し合うことができる、そして世界を美しく治めるという神様の役割を担うことができる。これが「ツェレム」に込められた、神様の大きな願いなんじゃないかなと感じました。
日常の中で、誰かに優しくなれた時、美しいものに感動した時、何か新しいものを生み出せた時、それは僕たちの内側にある**「ツェレム」が輝いている瞬間**なのかもしれません。
僕たちは誰かのコピーでもなく、無意味な存在でもありません。神様の願いと目的が深く刻み込まれた、唯一無二の存在です。

僕もこれからも、この言葉の意味を深く味わいながら、自分がこの世界にいる意味、神様が僕に込めてくださった願いは何だろうと、日々問いかけ続けていきたいと思っています。
一人でも多くの方が、この創世記の言葉を通して、ご自身の存在の尊さに気づき、神様との関係を意識するきっかけになれば嬉しいです。
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「あなたのため」という言葉に、ふと、ひっかかるようになりました。

良かれと思ってしたことが、
実は「感謝されたい」という気持ちや、
「正しいと思われたい」という
自分自身のエゴだったんじゃないか。

そんなふうに、自分の心がチクッと刺さる瞬間が、
最近、増えている気がします。

「利他」という美しい言葉の裏に、
「押しつけ」が隠れていないか。
そんな問いを抱えながら、モーセ五書を読み返していました。

そこで、ある一節が胸に深く突き刺さりました。

創世記22章2節。
神がアブラハムに、最愛の息子を捧げるよう命じる、あの難しい場面です。

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて……」

ここで「愛する」と訳されたヘブライ語は、
「アハヴ(אָהַב)」 という言葉です。

実はこの「アハヴ」、
聖書全体で人間が誰かを「愛する」文脈で使われるのは、ここが最初なのだそうです。

神はわざわざ、
「あなたが愛する」 と強調されました。

そのことに、深い意味を感じずにはいられません。

わたしたちは、愛する人や、正しいと思うことに対して、
無意識のうちに
「自分の所有物」のように接してしまうことがあります。

「愛しているからこそ」
「あなたのためを思って」

その言葉が、時として、
相手を縛る鎖になってしまうことはないでしょうか。

振り返れば、私にも覚えがあります。
相手の幸せを願っているようで、
実は 「自分の思い通りに動いてくれること」を
無意識に期待していた瞬間が。

それは、利他ではなく、
形を変えたエゴだったのかもしれません。

アブラハムにとって、イサクは何よりも大切な存在でした。
だからこそ、その愛は「執着」に変わる危うさもあったはず。

「アハヴ(愛)」の語源には、
「与える」「息を吹き込む」 といった意味があるといわれます。

真の愛とは、
相手を自分の枠に閉じ込めることではなく、
自分から切り離し、
その人をその人自身の人生へと解き放つことなのかもしれない。

「こうあるべきだ」という
自分のエゴを握りしめている間は、
そこに神が入り込む余地はありません。

そっと手を開き、結果を委ねたとき、
初めて、「利他」の清い風が吹き抜ける。

自分の中にある「押しつけ」に気づくたび、
わたしは少し深呼吸をして、
この「アハヴ」の原点を、思い返すようにしています。

---

聖書の古い言葉は、
数千年の時を超えて、
今を生きるわたしたちの、
小さな心のつかえに、優しく光を当ててくれます。

完璧ではない自分を抱えながら、
これからも、この深い物語を、
一歩ずつ歩みながら紐解いていきたい。

もし、この気づきの旅を、
少しでも共に分かち合える方がいらしたら、
これほど嬉しいことはありません。

この心の葛藤や、神との対話を、
わたしはマンガという形で表現し続けています。

もし宜しければ、ぜひご覧ください。
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無料でお読みいただけます。

共に、人生の本当の歩み方を、
探していけたら幸いです。

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「神はアダムを『ひとりぼっち』にしたくないと言った」
〜創世記が教える、あなたが「ひとり」ではない理由〜

僕が創世記を読んでいて、ずっと心に残っている言葉があります。

それは、神がアダムを造られた後の場面です。

「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
(創世記2章18節)

この「ひとりでいるのは良くない」という言葉、原文のヘブライ語ではとても豊かな意味を持っています。

ヘブライ語で「良くない」は לֹא־טוֹב (lo-tov) です。
実は、創世記1章で神が創造を終えられたとき、すべてをご覧になって「非常に良かった」(トーブ・メオッド)と宣言されています。
それが、ここでは初めて「良くない」という言葉が出てくるんです。

僕はこの箇所を読むたびに、胸が熱くなります。

神は、完璧な世界を造られたはずなのに、
ただ一つ「人がひとりでいること」だけを「良くない」と宣言された。
それは、神ご自身が「孤独」を深くご存じだからではないでしょうか。

そして「助け手」と訳される言葉、ヘブライ語では עֵזֶר (ezer) です。
この言葉、実は「下から支える助手」というような弱い立場を表す言葉ではありません。
聖書の中では、神ご自身が私たちの「エゼル」(助け)であると語られることもある、強い力を持つ言葉なんです。

つまり神は、アダムのために「単なるお手伝い」ではなく、
対等でありながら、互いを完全にする存在
を造ろうとされた。

僕はこのことを考えながら、自分の人生を振り返ります。
確かに、一人で頑張ろうとすると、視野が狭くなることがあります。
でも、誰かと共にいることで、見えなかったものが見えてくる。
自分一人では気づけなかった、新しい側面を発見できる。

神が女を造られたのは、
アダムが「孤独」で終わらないため。
彼が、自分とは異なる存在を通して、
自分自身をも、世界をも、より豊かに知るため。

そしてそれは、きっと私たち一人ひとりにも通じる問いかけなのだと思います。

神は今も、
あなたが「ひとりぼっち」でいることを「良くない」と思っておられるのではないでしょうか。

モーセ五書を読むたびに、こうした神の細やかな配慮に気づかされます。
表面的な物語の奥に、人間への深い愛が込められている。

僕自身、まだ学びの途中です。
でも、こんな風に聖書の言葉と向き合う時間が、
少しでも誰かの心に響くなら嬉しいです。

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絵本のような優しいタッチのマンガで、
創世記の世界をもっと身近に感じていただけたら、
これ以上の喜びはありません。

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顔をあげる小さな勇気──創世記4章からの気づき

こんにちは、石川尚寛です。
最近、人とのやり取りの中で、自分の思いが伝わらなかったり、誤解されてしまったりすると、つい心が沈んでしまうことがあります。そんな時、僕はどうしても「なぜうまくいかないんだろう」と憤りのような感情を抱いてしまいます。顔を伏せてしまうような気持ちになるのです。

その感情に向き合っている時に、創世記4章6–7節の言葉に心がとまりました。カインに語りかける主の言葉です。
「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

ここで使われている「罪」という言葉は、ヘブライ語で ḥaṭṭā’t(ハッタート)です。これは「的を外す」というニュアンスを持っています。つまり、狙ったところから外れてしまう状態を指しているのです。僕はこのニュアンスに触れた時、日常の中で「うまくいかない」と感じる瞬間も、必ずしも自分が悪いわけではなく、ただ的を外してしまっただけなのかもしれないと気づきました。

また「それを治めなければならない」という部分に使われている動詞は māšal(マーシャル)で、「支配する」「統べる」という意味があります。罪や憤りは僕たちの心に寄り添うようにやってくるけれど、それに支配されるのではなく、むしろ自分がそれを治める立場にあるのだと示されているのです。

この箇所を読むと、罪が軽く見えるように感じることもあります。けれど、実際には「罪そのもの」ではなく「罪に向かう心の傾き」が描かれているのだと思います。小さな憤りや嫉妬に心を奪われる前に、顔をあげる勇気を持てるかどうか。その分岐点に立たされているのがカインであり、僕自身の日常にも重なるのです。

僕はこの言葉から、「顔をあげる」という行為そのものが日常の中での小さな勇気なのだと学びました。憤りや落ち込みに支配されそうになる時、ほんの少し顔をあげるだけで、次の一歩が見えてくる。罪は軽いものではなく、芽生える前の心の動きから始まるのだと気づかされます。

これからも創世記を丁寧に読みながら、自分の心の動きを見つめていきたいと思います。気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

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「イサクの『ほっと』する人柄に、僕は救われた。争わない生き方の原点。」

イサクって、どんな人だったんだろう?

聖書を読み始めた頃、僕はイサクのことを、どうしても「アブラハムの子」や「ヤコブの父」としてしか見られませんでした。
でも、モーセ五書をゆっくり学ぶうちに、ふと気づいたんです。
この人の生き方は、なんて「ほっと」するのだろう、と。

井戸を掘り直す、優しい選択

今日、僕が深く見つめたいのは、創世記26章18節から22節までの箇所です。
イサクは、父アブラハムがかつて掘った井戸を、再び掘り直します。
ところが、ゲラルの牧者たちが「この水は俺たちのものだ」と主張し、争いが始まる。

普通なら、ここで権利を主張し、戦うかもしれません。
でも、イサクは違いました。
彼はその井戸を「エセク」(争い)と名付け、そっと去ります。
そして、新しい井戸を掘る。また争われる。彼はそれを「シトナ」(敵意)と名付け、また去る。
三度目に掘った井戸には、もう争いは起こらなかった。彼はそれを「レホボト」(広い場所)と名付け、こう言います。
「今や、主は私たちの場所を広げてくださった。私たちはこの地で繁栄する。」

ヘブライ語が教えてくれる、心の動き

ここで、僕はヘブライ語の原文に触れてみました。
イサクが名付けた「エセク」(עֵשֶׂק)は、「争い」や「訴訟」を意味します。
「シトナ」(שִׂטְנָה)は、「敵意」や「憎しみ」。
そして「レホボト」(רְחֹבוֹת)は、「広い場所」や「自由な空間」。

これらの名前は、ただのラベルじゃないんです。
イサクが、その瞬間に感じたことを、静かに言葉に刻んだのだと思います。
争いを避け、敵意から離れ、最終的に神が与えてくださった「広がり」を受け入れる。
彼の心の歩みが、名前となって残されている。それを知った時、僕は胸が温かくなりました。

僕がイサクから学んだこと

イサクは、自分の権利を大声で主張しませんでした。
井戸を奪われても、怒りに任せて反撃せず、ただ静かに去り、新たな場所を探し続けた。
それは、弱さではなく、深い信頼があったからではないでしょうか。
「神が必ず道を開いてくださる」という信頼。

現代の僕たちは、少しでも理不尽を感じれば、すぐに戦おうとしてしまう。
でも、イサクの姿は、違う選択肢を教えてくれるように思います。
争いのただ中で、一度深呼吸をして、そっと一歩引いてみる。
それだけで、心が「ほっと」軽くなる瞬間がある。
イサクの物語は、そんな穏やかな知恵を、そっと差し出してくれている気がするんです。

あなたの「井戸」は、どこにありますか?

今、あなたの生活の中に「争い」や「敵意」を感じる場所はないでしょうか。
イサクのように、一度名付けて、そっと距離を置いてみることは、できないだろうか。
神が開いてくださる「広い場所」は、きっとどこかにある。
僕自身、そのことをイサクから教えられ、まだ学びの途中です。

モーセ五書には、こんなふうに「ほっと」させられる物語が、まだたくさん眠っています。
僕も日々、新たな気づきを与えられ、驚きと感謝の連続です。
もし、このイサクの物語に少しでも心が動いた方がいたら、ぜひオリジナルの聖書の言葉に触れてみてください。

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僕のマンガ版では、イサクの穏やかな表情や、井戸をめぐる情景を、ビジュアルで感じていただけるよう心がけています。
一緒に聖書の世界を味わい、学びを深めていきましょう。

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ヤコブが選んだ「最愛の子」の真実…その選択に隠された魂の叫びとは

はじめに:ひとつの家族、ふたつの運命

こんにちは、石川尚寛です。

聖書を読んでいると、どうしても気になってしまう「人間らしい」エピソードがあります。
今日、僕が皆さんと一緒に考えたいのは、創世記37章に描かれた、父ヤコブの「偏愛」についてです。

なぜヤコブは、ユダではなくヨセフを特別に可愛がったのか。
その理由を、ヘブライ語の原文に立ち返りながら、丁寧に見ていきたいと思います。

創世記37:3が語る「愛」の質

聖書には、こう記されています。

「イスラエルはヨセフを、どの息子よりも愛した。年をとってから生ませた子だったからである。それで、ヨセフには長そでの着物を作ってやった。」(創世記37:3)

ここで僕がまず注目したのは「愛した」という言葉の原文です。
ヘブライ語では「アハヴ」אָהַבという語が使われていますが、この言葉は単なる感情的な「好き」ではありません。
意志的な選択を伴う「愛」、契約的な「愛」を意味することが多いのです。

でもヤコブのこの愛は、少し違う性質を持っているように感じました。
なぜなら、理由が「年をとってから生ませた子だったから」と説明されているからです。

ヤコブの過去が生んだ「特別な愛」

僕がこの箇所を読みながら考えたのは、ヤコブ自身の生い立ちでした。

ヤコブは、かつて自分が兄エサウよりも母リベカに愛された経験を持っています。
そして今、ヨセフは彼にとって、最愛の妻ラケルが「ようやく」与えてくれた子でした。
ラケルは最初、子どもを授からず、長い間待ち望んだ末にヨセフを産んだのです。

「年をとってから生ませた子」という言葉の背景には、単なる年齢の問題ではなく、
待ち望んだ祈りが実現したことへの深い感謝があるのではないか、と僕は思いました。

ユダはレアという別の妻の子です。
ヤコブはレアよりもラケルを愛していましたから、その愛が子どもたちへの感情にも影響したのでしょう。

「長そでの着物」が意味するもの

そして、その愛の具体的な表現が「長そでの着物」でした。
当時、長そでの着物は働くのに不便で、特別な身分の者が着るものでした。
ヤコブはこの贈り物を通して、ヨセフを「他の兄弟たちとは違う特別な存在」として示したのです。

僕はここで、ある疑問が頭に浮かびました。
もし神が平等にすべての人を愛しておられるなら、なぜ人間はこうも「えこひいき」をしてしまうのか。
ヤコブの選択は、ただの親バカなのでしょうか。

それとも、彼の中にある、自分ではどうにもできない「愛の偏り」の現れなのでしょうか。

僕自身の気づき:不完全さの中にある神の計画

この箇所を深く読むうちに、僕はあることに気づきました。

ヤコブの偏愛は確かに家庭内にねたみと不和をもたらし、ヨセフは奴隷として売られる苦難を味わいます。
でも、その苦難の先に、ヨセフはエジプトで高い地位に就き、家族全体を飢饉から救う者となるのです。

神は人間の不完全な選択や、失敗さえも用いて、より大きな救いの計画を進めておられる。

ヤコブの「なぜユダではなくヨセフを」という選択は、人間的な視点では問題があるように見えます。
ユダは後に、ダビデ王やイエス・キリストの血筋につながる重要な部族になります。
にもかかわらず、ヤコブはヨセフを選んだ。

でも、神の視点では、どちらの子も重要な役割を担うことになる。
この矛盾のような事実に、僕は神のご計画の広さと深さを感じずにはいられません。

問いかけ:私たちの「偏り」は何を生むか

今日、この創世記の物語を読みながら、僕は自分自身にも問いかけました。
自分には無意識の「えこひいき」はないだろうか。
見た目や能力、性格によって、人を違いなく見ているだろうか。

そして、もし偏りがあるなら、それが神の計画の中でどう用いられる可能性があるだろうか。

ヤコブの選択は完璧ではありませんでした。
でも、その不完全な人間の選択さえも、神は全体の救いの物語の中に織り込んでいかれる。
このことから、僕は大きな慰めと希望を見いだすのです。

僕はまだまだ学びの途中です。
モーセ五書には、こんな人間味あふれる物語がたくさん詰まっていて、
その一つひとつが、神と人間の関係について深く考えさせてくれます。

もしこの記事を読んで、ヤコブとヨセフの物語にもっと触れてみたいと思われた方は、
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聖書の物語が、マンガという形でより身近に感じられると思います。
僕自身も、これからもっと深く学び、皆さんと共有していきたいです。

YouTube https://youtu.be/SeVQiTO_Fwk?si=ywKFlKqDKGUOEO63

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なお

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「イスラエル12部族の秘密:僕が創世記49章で見つけた、神の壮大な計画の一片」

ヤコブの最後の言葉が、すべてを変えた

僕は最近、モーセ五書の創世記を読んでいて、ある一章に立ち止まりました。創世記49章です。ここには、イスラエルの父と呼ばれるヤコブが、死の床で12人の息子たち一人一人に語りかける言葉が記されています。

この言葉こそが、後の「イスラエルの12部族」の起源と言われる部分です。聖書を読んだことがない方にも、やさしくご紹介しますね。

僕が最初に思ったのは、なぜヤコブは息子たちを呼び寄せ、一人一人に違う言葉をかけたのだろう?ということでした。それは単なる父親の遺言というより、まるで未来への預言のように感じたんです。

ヘブライ語から見える深み:部族という言葉の重み

聖書の原文はヘブライ語で書かれています。創世記49章28節には、こうあります。「これらは、イスラエルの部族(שִׁבְטֵי)である。十二である。」(創世記49:28)

ここで「部族」と訳されているヘブライ語は「שֵׁבֶט」(シェベト)です。この言葉、実は「杖」や「支え」という意味も持っています。僕はこの語感がとても好きで、一つの家族、一つの集団が、互いに支え合い、また神によって支えられる「一本の杖」のような存在として描かれているのだな、と感じました。

ヤコブは、長男ルベンから始まり、シメオン、レビ、ユダ……と、12人全員に言葉を贈ります。その内容は、讃えるものもあれば、戒めや警告も含まれています。例えば、ユダへの祝福(創世記49:8-12)は非常に力強く、「ユダは獅子の子」と称えられ、支配者の杖が彼から離れないという約束が語られます。

不完全な人間を通して進む神の物語

12人の息子たちは、決して完璧な人間ではありませんでした。過去には兄弟喧嘩や妬み、過ちもありました。でも、ヤコブはそんな彼ら一人一人の性質や未来を見据え、言葉を選んで祝福(時には厳しい言葉も)した。

僕はここに、神の計画の不思議さを覚えます。神は完璧でない私たち人間を、そのまま用いながら、歴史を織りなしていかれる。12部族とは、神がアブラハムに約束された「あなたの子孫を大いなる国民とする」という約束(創世記12:2)が、具体的な形を持ち始めた瞬間なのかもしれない。

そして、この12部族の物語は、創世記から出エジプト記、民数記、申命記へと、モーセ五書全体を通して続いていきます。約束の地への旅路、律法を受けるとき、部族ごとに旗を掲げて宿営するとき……。12という数は、神の民の全体性を表す数字として、常に意識され続けます。

今残っている部族は? モーセ五書が示す希望

よく「今、12部族はどうなったの?残っているの?」という質問を耳にします。僕がモーセ五書から感じるのは、神の約束は決して消え去るものではない、ということです。

申命記の終わり近く、モーセがイスラエルの民を見渡す場面(申命記33章)でも、各部族への祝福が再び語られます。たとえ歴史の中で離散や苦難があったとしても、神がそれぞれに託された使命や役割は、何かしらの形で続いているのではないか。僕は、それを確信するというより、一つの希望として心に留めています。モーセ五書は、すべての答えを明かすのではなく、私たちが神と共に歩む中で、その答えを探求する旅へと招いてくれているように思うからです。

僕自身、まだモーセ五書の学びの途中です。一つの章節から、これほど多くの気づきと問いが湧き上がることに、いつも驚かされます。12部族の物語は、単なる古代の族長の話ではなく、私たち一人一人が「神の民」としてどのように生き、互いに関わり、未来へと希望をつなぐのかを考えさせる、豊かなテーマです。

もし、この話に興味を持たれた方がいらっしゃったら。僕の学びのきっかけにもなっている、マンガで描かれたモーセ五書を覗いてみてはいかがでしょうか。気になった方は、ぜひAmazonで『モーセ五書 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

創世記49章のヤコブの言葉が、あなたの心にも何かを響かせますように。

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片づけられない僕と創世記の言葉

こんにちは、石川尚寛です。
部屋の片隅に積み上げた本や紙袋を見て、ため息をつくことがあります。買ったものをうまく使い切れず、気づけば散らかってしまう。浪費癖と整理整頓の苦手さは、僕の日常の悩みのひとつです。そんな自分を見つめているとき、ふと創世記のある言葉に心が向かいました。

創世記2章15節には「主なる神は人を取り、エデンの園に置いてそれを耕し、守らせた」とあります。ヘブライ語では「לעבדה ולשמרה」(le’ovdah u’leshomrah)と書かれています。「avodah」は「仕える」「耕す」という意味を持ち、「shamar」は「守る」「整える」というニュアンスを含みます。人はただ園に住むだけではなく、耕し、守り、秩序を保つ使命を与えられていたのです。

僕はこの言葉を読むと、自分の散らかった部屋が小さな「園」に見えてきます。浪費してしまう癖も、整理できない弱さも、神の前では隠せない現実です。でも「耕し、守る」という言葉は、完璧に片づけることを求めているのではなく、「少しずつ整える」方向へ僕を招いているように感じます。余計なものを買わないことも、散らかった机を一枚ずつ片づけることも、園を守る小さな行為なのだと思うと、心が少し軽くなります。

浪費癖や整理整頓の苦手さは、僕にとって「呪われた地」のような抵抗です。でも創世記の言葉は、その抵抗の中で「なお耕し、なお守れ」と響いてきます。僕はその響きを受け止めながら、今日も少しずつ片づけを続けたいと思います。

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安息日を忘れるとき、僕たちは何を失うのか

こんにちは、石川尚寛です。
ある朝、駅の改札で流れる広告に目を奪われながら、僕はふと息が詰まるような感覚を覚えました。画面は「もっと速く」「もっと効率的に」を叫び、人の顔はスマホの光で白く照らされている。そんな光景を見て、僕は「日常が神から離れていく危険」をはっきりと感じました。それで、もう一度だけ安息日の言葉に立ち戻ってみようと思ったのです。

出エジプト記20章8節、ヘブライ語はこう書かれています。זָכוֹר אֶת־יוֹם הַשַּׁבָּת לְקַדְּשׁוֹ(zākhor et‑yom ha‑shabbat ləqadděšô)。「安息の日を覚え、それを聖とせよ」。短い命令に見えて、そこには「思い出す」「区切る」「特別に扱う」という三つの働きが込められています。忙しさの中で忘れていく大切なものを、繰り返し取り戻すためのリズムだと僕は受け取っています。

産業革命以降の世界は、人間の時間を盗んできました。機械の速さ、工場のシフト、24時間営業、デジタルの通知。便利さは確かに多くをもたらしましたが、その代償として僕たちは「共通の休み」「顔を合わせる時間」「静かに考える場」を少しずつ失ってきました。仕事の効率や経済成長が最高の価値になるとき、神に立ち返るリズムは脇に追いやられ、罪や見落としが静かに累積していきます。

日常が神から離れていくとき、何が起きるか。まず、他者の痛みが見えにくくなる。成果が人間の価値を決めるとき、弱さは排除され、競争が正当化される。次に、私たちの内側が硬くなる。祈りや黙想の時間を失うと、良心の声は雑音にかき消され、便利さの中で小さな不正や嘘を見過ごすことに慣れてしまう。最後に、共同体の絆が切れる。共に休むことで育まれる優しさや赦しの習慣が断たれると、孤立が広がります。

僕自身、安息日を形だけで済ませてしまったことが何度もあります。忙しさを理由に「今回はいいか」と言い訳し、気づけば心が冷たくなっていた。そんなとき、安息日のもつ「思い出す力」が自分を呼び戻してくれました。時間を区切ってスマホを置き、誰かと食卓を囲むだけで、見落としていたものが見えてくる。ヘブライ語の「זָכוֹר」が示すように、覚えることは能動的な行為で、繰り返しが必要です。

安息日は単なる昔の掟ではありません。産業革命以降に加速した「人中心」「効率至上」の流れの中で、僕たちが失いかけているものを取り戻すための、実践可能な手立てです。守ると言っても硬直したルールを押しつけるつもりはありません。大事なのは、その背後にある「立ち返る」という意志です。週に一度、意図的に神と隣人と自分に目を向ける時間を作ること。それが小さな抵抗となり、やがて生活の色を取り戻すはずだと僕は信じています。

これから僕は、毎週一つだけ習慣を減らしてみようと思います。スマホ通知を切る、労働時間外に仕事のメールを開かない、家族と一緒に食事をする。そうした小さなことが、積み重なれば「覚える力」を育て、罪と疎遠になる助けになるはずです。読んでくれたあなたも、もしよければ一つだけ試してみてください。どんな小さな変化でも、神に立ち返る一歩になります。

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