人気

なお
こんにちは、石川尚寛です。
先日、ある友人と話していて、「人生って、まっすぐ進めたことなんて一度もないよね」という言葉が印象に残りました。
たしかに、思い描いた通りに進むことなんて、ほとんどない。
むしろ、うまくいかなかったことや、後悔している選択のほうが、心に残っていたりします。
でも、そんな「うまくいかなかった道」の先で、思いがけず誰かに出会ったり、大切なものを見つけたりすることもある。
その話を聞いて、ふと、創世記38章のユダとタマルの物語を思い出しました。
創世記38章は、ヨセフ物語の途中に突然挿入される、ちょっと異質な章です。
ユダは兄弟たちとヨセフを売ったあと、家族から離れてカナン人の女性と結婚し、三人の息子をもうけます。
長男エルの妻となったのが、タマル。けれどエルは「主の目に悪」とされて死に、次男オナンもまた、兄の名を継がせる役目を果たさずに命を落とします。
ユダは三男シェラが成長するまでタマルを実家に帰しますが、やがて彼女を忘れてしまいます。
タマルは、自分の未来が閉ざされたまま放置されていることに気づきます。
そこで彼女は、顔を覆い、遊女のふりをしてユダを誘惑し、子を宿します。
やがて妊娠が明らかになると、ユダは「火あぶりにせよ」と言い放ちますが、タマルが自分の子を身ごもったと知ると、「彼女のほうが私より正しい」と認めます(創世記38章26節)。
この「正しい」は、ヘブライ語で「צָדְקָה מִמֶּנִּי(ツァドカー・ミンメニー)」と書かれています。
「ツァダク(צָדַק)」は「正義」「義」を意味する言葉。
ユダは、自分が果たすべき義務を果たさず、タマルがそれを補ったことを認めたのです。
彼女の行動は、決して褒められるものではないかもしれない。
でも、彼女は自分の命をかけて、義を貫いた。
そしてその子孫から、ダビデ王が生まれ、やがてメシアへとつながっていきます。
僕はこの物語を読むたびに、「まっすぐじゃない人生の中で、まっすぐに選ばれることもあるんだ」と思わされます。
ユダも、タマルも、決して完璧な人ではなかった。
でも、神の物語の中で、彼らは大切な役割を担っていきます。
僕たちもまた、失敗や後悔の中にいるときこそ、何か大きな物語の一部になっているのかもしれません。
これからも、そんな視点でモーセ五書を読み続けていきたいと思っています。
気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。
無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書

なお
こんにちは、石川尚寛です。
最近、ふと空を見上げる時間が長くなりました。澄んだ青空とか、夕焼けに染まる雲とか、本当にきれいで心が洗われますよね。でも同時に、こんなに壮大で美しい世界の中にいる自分は、一体何のためにここにいるんだろう、って考えちゃう時があるんです。誰もが一度はそんな気持ちになるんじゃないかな。毎日の生活に追われていると、つい自分の存在価値とか、人生の目的とかを見失いがちになってしまう。
そんな時に、僕が心を寄せるのが聖書の言葉です。今回は、モーセ五書の中でも一番最初の創世記を開いてみました。
僕たちが、何のために、誰によって造られたのかを教えてくれる、とても大切な言葉です。
特に心に響いたのは、この章節です。
> 創世記 1章26節
> 「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちに、われわれの似姿に造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」」
>
> 創世記 1章27節
> 「神は人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女に彼らを創造された。」
>
神様が、僕たち人間を「自分のかたち」に造られた、というんです。これって本当にすごいことですよね。
「かたち」と訳されているヘブライ語は「ツェレム」(צֶלֶם)という言葉です。これは、単なる「形」という意味だけでなく、「像」とか「似姿」という意味も持っています。現代の言葉で言うなら、肖像画とか、鋳型から作った像のようなイメージでしょうか。
つまり、僕たちは単なる生き物じゃなくて、**神様の「像」**として、この世界に置かれたっていうことなんです。
じゃあ、神様の「像」として造られた僕たちには、どんな願いが込められているんだろう。神様は、僕たちを通して何を表現したかったんだろう。
僕なりに考えてみたのは、神様が僕たち一人ひとりを、ご自身の愛や創造性、そしてこの世界に対する配慮といった、目に見えない神様の性質を映し出す鏡のような存在として造ってくださったんじゃないか、ということです。
僕たちは神様と同じ形を持っているわけではないけれど、神様と関係を持つことができる、愛し合うことができる、そして世界を美しく治めるという神様の役割を担うことができる。これが「ツェレム」に込められた、神様の大きな願いなんじゃないかなと感じました。
日常の中で、誰かに優しくなれた時、美しいものに感動した時、何か新しいものを生み出せた時、それは僕たちの内側にある**「ツェレム」が輝いている瞬間**なのかもしれません。
僕たちは誰かのコピーでもなく、無意味な存在でもありません。神様の願いと目的が深く刻み込まれた、唯一無二の存在です。
僕もこれからも、この言葉の意味を深く味わいながら、自分がこの世界にいる意味、神様が僕に込めてくださった願いは何だろうと、日々問いかけ続けていきたいと思っています。
一人でも多くの方が、この創世記の言葉を通して、ご自身の存在の尊さに気づき、神様との関係を意識するきっかけになれば嬉しいです。
気になった方は、ぜひAmazonで『創世記 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書

なお
こんにちは、石川尚寛です。
最近、人とのやり取りの中で、自分の思いが伝わらなかったり、誤解されてしまったりすると、つい心が沈んでしまうことがあります。そんな時、僕はどうしても「なぜうまくいかないんだろう」と憤りのような感情を抱いてしまいます。顔を伏せてしまうような気持ちになるのです。
その感情に向き合っている時に、創世記4章6–7節の言葉に心がとまりました。カインに語りかける主の言葉です。
「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
ここで使われている「罪」という言葉は、ヘブライ語で ḥaṭṭā’t(ハッタート)です。これは「的を外す」というニュアンスを持っています。つまり、狙ったところから外れてしまう状態を指しているのです。僕はこのニュアンスに触れた時、日常の中で「うまくいかない」と感じる瞬間も、必ずしも自分が悪いわけではなく、ただ的を外してしまっただけなのかもしれないと気づきました。
また「それを治めなければならない」という部分に使われている動詞は māšal(マーシャル)で、「支配する」「統べる」という意味があります。罪や憤りは僕たちの心に寄り添うようにやってくるけれど、それに支配されるのではなく、むしろ自分がそれを治める立場にあるのだと示されているのです。
この箇所を読むと、罪が軽く見えるように感じることもあります。けれど、実際には「罪そのもの」ではなく「罪に向かう心の傾き」が描かれているのだと思います。小さな憤りや嫉妬に心を奪われる前に、顔をあげる勇気を持てるかどうか。その分岐点に立たされているのがカインであり、僕自身の日常にも重なるのです。
僕はこの言葉から、「顔をあげる」という行為そのものが日常の中での小さな勇気なのだと学びました。憤りや落ち込みに支配されそうになる時、ほんの少し顔をあげるだけで、次の一歩が見えてくる。罪は軽いものではなく、芽生える前の心の動きから始まるのだと気づかされます。
これからも創世記を丁寧に読みながら、自分の心の動きを見つめていきたいと思います。気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書


なお
こんにちは、石川尚寛です。
最近、朝の冷たい空気を吸い込むときに、ふと「鼻」というものの不思議さを感じました。眠気が残る頭も、鼻から入る空気で少しずつ目覚めていく。呼吸はいつも無意識にしているのに、鼻を意識すると「生きている」という感覚が急に鮮やかになるのです。そんな体験から、創世記のある一節に心が向かいました。
創世記2章7節。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」
ヘブライ語では「アダム」(אָדָם)が「土」(אֲדָמָה)から形づくられ、「鼻」(אַף)に「息」(נִשְׁמַת חַיִּים)が吹き込まれると記されています。ここで強調されているのは、鼻を通して命が宿るということ。僕はこの表現に、ただの身体的な描写以上の意味を感じました。鼻は、外からの空気と内なる存在をつなぐ場所。そこに神の息が触れることで、人は「生きた者」(נֶפֶשׁ חַיָּה)となったと語られています。
この聖句を読んでいると、自然に鼻に集中する瞑想を試したくなります。呼吸を数えるのではなく、鼻を通る空気そのものに意識を置く。冷たさや温かさ、通り抜ける感覚をただ感じる。すると、自分の内に「息が与えられている」という事実が静かに広がっていきます。僕にとってそれは、神と共に生きることを思い出す小さな目覚めのようでした。
この気づきは、何かを教えるというより、自分自身の驚きに近いものです。鼻を意識するだけで、創世記の言葉が身体の中で響いてくる。人は土から造られた存在でありながら、息を受けて生きる者となった。その単純な事実が、日常の呼吸を少し特別なものにしてくれるのです。
これからも僕は、この「鼻に吹き込まれた息」という表現を手がかりに、自分の生き方を見直していきたいと思います。気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書


なお
こんにちは、石川尚寛です。
皆さんは、誰かにじっと見られていると緊張してしまうことってありませんか。
僕は以前、車の運転をしている時にパトカーとすれ違うと、何も悪いことはしていないのに、なぜかドキッとしてハンドルを握る手に力が入ってしまうことがありました。
「怒られるんじゃないか」「罰を受けるんじゃないか」
そんなふうに、相手の顔色をうかがってビクビクしてしまうこと。僕は長い間、聖書に書かれている「神を恐れる」という言葉も、これと同じような意味だと思っていたんです。
神様に見張られていて、少しでも間違ったら叱られる。だから震えながら従う。そんなイメージを持っていました。
でも、モーセ五書、特に「創世記」を漫画にするためにじっくりと読み込んでいくうちに、僕の中でのそのイメージが少しずつ変わっていったんです。
今日は、僕が創世記の物語を通して出会った、少し新しい「恐れ」の感覚について、皆さんと分かち合えたら嬉しいなと思います。
僕がハッとさせられたのは、創世記22章12節の言葉です。
ここは、アブラハムという人が、自分の最愛の一人息子イサクを神様に捧げようとする、とても緊迫した場面です。その直前で神様が彼を止め、こう言われます。
「あなたが神を恐れる者であることを、私は今、知った」
この「恐れる」という言葉。
ヘブライ語の原文では「ヤレー(yare)」という言葉が使われています。
確かにこれには「怖がる」という意味もあるのですが、深く調べていくと、単なる恐怖心とは少し違うニュアンスが見えてきました。
それは「畏敬(いけい)」、つまり、あまりにも偉大な存在を前にした時に、自然と頭が下がったり、息をのんだりするような感覚です。
面白いことに、この場面でアブラハムは、この場所を「アドナイ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付けます。この「イルエ」という言葉は「見る」という意味を持っています。
実はヘブライ語では、「恐れる(yare)」と「見る(ra’ah)」という言葉は、音がとても似ていて、深いところでつながっているそうなんです。
僕はここで、ふと気づかされました。
アブラハムにとって「神を恐れる」とは、お化けや猛獣に怯えるようなことではなかったんじゃないか。
そうではなくて、「神様が今、私をしっかりと見ておられる」ということを、全身で感じることだったのではないか、と。
僕たちは日常生活の中で、誰も見ていないところでは、つい気が緩んだり、時には自分勝手な振る舞いをしてしまいそうになります。逆に、人目があるところでは、よく見られようと背伸びをしてしまいます。
でも、アブラハムの姿を見ていると、彼は誰がどう思おうと関係なく、ただ神様という「たった一人の方」の視線を意識して生きていたように思うんです。
それは、監視カメラで見張られているような冷たい視線ではありません。
自分の最も大切なものを手放してでも信頼できるような、そんな圧倒的な愛を持った方が、自分のすべてを「見て」いてくださる。
その視線を常に感じて生きること。
神様の存在を、目の前の現実よりも「リアル」に感じること。
それが、聖書が教えてくれる「神を恐れる」ということの正体なのかもしれない、と僕は思うようになりました。
そう考えると、なんだか肩の力が抜けていくような気がします。
ビクビクして縮こまるのではなく、むしろ「神様が見ていてくださるから大丈夫だ」と、背筋がスッと伸びるような感覚です。
誰にも理解されないような苦しい時も、孤独を感じる時も、神様だけは見ていてくださる。
その安心感の中で、嘘をつかず、誠実に生きていこうとすること。それが、僕たちが今日からできる「神を恐れる」方法なのかもしれません。
僕自身、まだまだ人の目ばかり気にしてしまう弱いところがあります。
だからこそ、アブラハムのように、神様の愛ある眼差しだけを意識して歩んでいきたい。そう願いながら、今日も聖書の言葉に向き合っています。
皆さんは、今日、どんな時に神様の視線を感じるでしょうか。
もし、この創世記の物語をもっと深く味わってみたいなと思われた方は、僕が描いた漫画も読んでみてください。
気になった方は、ぜひAmazonで『創世記 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書


なお
こんにちは、石川尚寛です。
最近、夜にふと目が覚めてしまうことがありました。理由は特にないのですが、静かな部屋の中で「この先どうなるんだろう」と漠然とした不安が浮かんでしまうのです。眠れない時間は長くはないのですが、その瞬間だけは心が揺れてしまいます。そんな時に思い出したのが、創世記のある場面でした。
創世記15章6節。「アブラハムは主を信じた。すると、それが彼の義と認められた。」
この短い一節に、僕は立ち止まらされました。ヘブライ語原文では「וְהֶאֱמִן בַּיהוָה」(vehe’emin b’Adonai)と書かれています。「信じた」という動詞は「アーマン(אָמַן)」から来ていて、もともとは「支える」「揺るがない」という意味を持っています。つまり、アブラハムが神を信じたというのは、ただ心の中で「そうだ」と思ったのではなく、存在そのものを委ねて支えられることを選んだ、というニュアンスがあるのです。
僕はこの言葉に触れて、自分の不安が消えるわけではないけれど、「支えられている」という感覚を思い出しました。信じるとは、未来を完全に理解することではなく、揺れる心をそのまま差し出して、支えに身を置くことなのかもしれません。アブラハムもまた、約束がすぐに見えたわけではなく、ただ「信じる」という行為を選んだ。その姿に、僕自身の小さな夜の不安が重なって見えました。
この一節を読むたびに、僕は「信じる」ということを新しく問い直しています。信じるとは、方法ではなく、日々の中で「支えられている」と感じる瞬間を受け取ることなのだと。まだ答えは出ていませんが、その問いを持ち続けること自体が、僕にとっての学びになっています。
気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書


なお
こんにちは、石川尚寛です。
最近、夜遅くまで机に向かっていたとき、ふと窓の外を見たら、街の灯りがすっかり消えていて、真っ暗な空気だけが広がっていました。音もなく、ただ静けさだけが残るその時間に、不思議と安心感と少しの不安が同時に訪れました。何も形がなく、ただ「空っぽ」な時間。けれど、その空っぽさが次の朝の始まりを準備しているようにも感じられました。そんな体験から、創世記のある一節に心が向きました。
創世記1章2節。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」
この箇所のヘブライ語原文には「トーフー・ワ・ボーフー(tohu va-bohu)」という言葉が使われています。直訳すると「混沌と空虚」。つまり、まだ秩序も形もない世界の状態を表しています。僕はこの言葉に触れるたびに、混乱や空虚さがただの「無」ではなく、何かが始まる前の「余白」なのだと感じます。
「やみが淵のおもてにあり」という表現も、ただ暗闇を描いているだけではなく、深い水の上に広がる静けさを示しています。その上に「神の霊(ルーアッハ・エロヒーム)」が覆っていたと書かれているのです。ルーアッハは「風」や「息」とも訳される言葉で、動きや命の気配を含んでいます。つまり、形のない世界の上に、すでに命の息吹が漂っていたということです。
僕自身、日常で「まだ何も決まっていない」「形が見えない」状況に不安を覚えることがあります。でも、この聖句に触れると、その不安の中にもすでに「霊」が働いているのではないかと思えるのです。混沌や空虚さは、次の秩序や創造のための準備段階。そう考えると、むしろ希望の余白として受け止められるようになります。
この気づきは、僕にとって「今の混乱も未来の始まりにつながっている」という静かな確信を与えてくれました。だからこそ、これからも創世記を丁寧に読み進めていきたいと思います。
気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書


なお
こんにちは、石川尚寛です。
ある朝、駅の改札で流れる広告に目を奪われながら、僕はふと息が詰まるような感覚を覚えました。画面は「もっと速く」「もっと効率的に」を叫び、人の顔はスマホの光で白く照らされている。そんな光景を見て、僕は「日常が神から離れていく危険」をはっきりと感じました。それで、もう一度だけ安息日の言葉に立ち戻ってみようと思ったのです。
出エジプト記20章8節、ヘブライ語はこう書かれています。זָכוֹר אֶת־יוֹם הַשַּׁבָּת לְקַדְּשׁוֹ(zākhor et‑yom ha‑shabbat ləqadděšô)。「安息の日を覚え、それを聖とせよ」。短い命令に見えて、そこには「思い出す」「区切る」「特別に扱う」という三つの働きが込められています。忙しさの中で忘れていく大切なものを、繰り返し取り戻すためのリズムだと僕は受け取っています。
産業革命以降の世界は、人間の時間を盗んできました。機械の速さ、工場のシフト、24時間営業、デジタルの通知。便利さは確かに多くをもたらしましたが、その代償として僕たちは「共通の休み」「顔を合わせる時間」「静かに考える場」を少しずつ失ってきました。仕事の効率や経済成長が最高の価値になるとき、神に立ち返るリズムは脇に追いやられ、罪や見落としが静かに累積していきます。
日常が神から離れていくとき、何が起きるか。まず、他者の痛みが見えにくくなる。成果が人間の価値を決めるとき、弱さは排除され、競争が正当化される。次に、私たちの内側が硬くなる。祈りや黙想の時間を失うと、良心の声は雑音にかき消され、便利さの中で小さな不正や嘘を見過ごすことに慣れてしまう。最後に、共同体の絆が切れる。共に休むことで育まれる優しさや赦しの習慣が断たれると、孤立が広がります。
僕自身、安息日を形だけで済ませてしまったことが何度もあります。忙しさを理由に「今回はいいか」と言い訳し、気づけば心が冷たくなっていた。そんなとき、安息日のもつ「思い出す力」が自分を呼び戻してくれました。時間を区切ってスマホを置き、誰かと食卓を囲むだけで、見落としていたものが見えてくる。ヘブライ語の「זָכוֹר」が示すように、覚えることは能動的な行為で、繰り返しが必要です。
安息日は単なる昔の掟ではありません。産業革命以降に加速した「人中心」「効率至上」の流れの中で、僕たちが失いかけているものを取り戻すための、実践可能な手立てです。守ると言っても硬直したルールを押しつけるつもりはありません。大事なのは、その背後にある「立ち返る」という意志です。週に一度、意図的に神と隣人と自分に目を向ける時間を作ること。それが小さな抵抗となり、やがて生活の色を取り戻すはずだと僕は信じています。
これから僕は、毎週一つだけ習慣を減らしてみようと思います。スマホ通知を切る、労働時間外に仕事のメールを開かない、家族と一緒に食事をする。そうした小さなことが、積み重なれば「覚える力」を育て、罪と疎遠になる助けになるはずです。読んでくれたあなたも、もしよければ一つだけ試してみてください。どんな小さな変化でも、神に立ち返る一歩になります。
気になった方は、ぜひAmazonで『創世記 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書


なお
こんにちは、石川尚寛です。
部屋の片隅に積み上げた本や紙袋を見て、ため息をつくことがあります。買ったものをうまく使い切れず、気づけば散らかってしまう。浪費癖と整理整頓の苦手さは、僕の日常の悩みのひとつです。そんな自分を見つめているとき、ふと創世記のある言葉に心が向かいました。
創世記2章15節には「主なる神は人を取り、エデンの園に置いてそれを耕し、守らせた」とあります。ヘブライ語では「לעבדה ולשמרה」(le’ovdah u’leshomrah)と書かれています。「avodah」は「仕える」「耕す」という意味を持ち、「shamar」は「守る」「整える」というニュアンスを含みます。人はただ園に住むだけではなく、耕し、守り、秩序を保つ使命を与えられていたのです。
僕はこの言葉を読むと、自分の散らかった部屋が小さな「園」に見えてきます。浪費してしまう癖も、整理できない弱さも、神の前では隠せない現実です。でも「耕し、守る」という言葉は、完璧に片づけることを求めているのではなく、「少しずつ整える」方向へ僕を招いているように感じます。余計なものを買わないことも、散らかった机を一枚ずつ片づけることも、園を守る小さな行為なのだと思うと、心が少し軽くなります。
浪費癖や整理整頓の苦手さは、僕にとって「呪われた地」のような抵抗です。でも創世記の言葉は、その抵抗の中で「なお耕し、なお守れ」と響いてきます。僕はその響きを受け止めながら、今日も少しずつ片づけを続けたいと思います。
気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書

