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或
回答数 38>>
哲学ってのは自分の中にある物で、共有こそすれ人に押し付けるもんじゃない訳だから反発があるのもわかる。
でも、それって逆に言えば「哲学」として自死は悪という言葉が発せられてる以上は押し付けてきてる訳じゃ無いって事になるのを知るべきではある。
哲学として語ってる時点で「俺はこう生きる」であって「お前らこう生きろ」では無いんだよ。
分かりやすく言うなら
「俺は自死という選択をしない事を前提に自分の哲学を磨くぜ!」
って言ってるだけなんすよ。
だから人が唱える哲学をいちいち否定するのは不毛というか、勝手に取捨選択すれば良いわけです。
「俺の生き方や考え方に興味がある奴は是非一部だけでも参考にしてくれよな!」
って人にわざわざお前の考え方には当てはまらない奴が居る!って言っちゃってる事になるからね。それはあんまり良くないよね。
そういう意味では俺は「自死は悪」派ですよ。理由は絶対死にたくないからです。
これくらいシンプルな話なんだよね。
これを「哲学の基礎」に置いて生きるなら「生きるための哲学」が生まれる訳で、逆に自死を良しとするなら「死に方を模索する哲学」も生まれるでしょう。要はそういう事。
基礎が定まらないうちは何も決まらんのさ。
だからどちらも否定しちゃいけない。
まぁ、悪って言葉が強過ぎて押し付けてきてるように見えるのは同意する。
ただ、「哲学の基礎として置く」と明記してる時点でなんら間違いは無い。
むしろそれほど強烈に「生きる事」にこだわる人間の哲学に興味が湧くくらいになれたら素敵だよね。
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或 投稿者
だからそもそも定義のズレが双方にあるのです。 私からすれば疑いようもないものなどもはや命題のさらに先。結論です。 私にとって哲学の基礎は土台としての問いそのもの。そういう意味合いとして解釈したと再三説明しております。 そしてそれは質問に関係のない答えを放った責任として説明をしたまでです。 決して正しいと言いたいわけでも、あなたを否定したいわけでもありませんので誤解なきよう。 そしてその説明にすら否定が及ぶのはもはや一方的な攻撃であると判断いたしました。 質問者が居ないという必要のない文言から攻撃の意図は明白でしたが、説明責任を果たすまで目を瞑っていました。この先は許容しかねます。さようなら。
愛善院
それは「哲学の基礎」と呼ばない。 「思考の基礎」や「認識の基礎」であり、個人の中にあるものであって、自己完結に置くしかないものである。これが「自分の中にある哲学の基礎」とかいう論点ズレを生じている。 なんでも「基礎」になるとしても、なんでも「思考の基礎」になるとしても、なんでも「自分の中の哲学の基礎」になるとしても、 なんでも「哲学の基礎」になるわけではない。なんでも「哲学の基礎」になり得る可能性はあるが、徹底的に批判的に観察したときに「疑いようがないもの」をのみ「哲学の基礎」と言う。
みかん
この文の「自死」をすべて「寿命の短い宇宙人として」に変換して読んでみても、十分成り立つ内容です。 お説の論理が真ならば、これも哲学の基礎と言えなければ、哲学論議になりません。
愛善院
論点が違う。 質問相手に「どう思うか」と尋ねている以上、「自分の哲学の基礎」になるかどうかは焦点にならない。 なぜなら誰かに質問するまでもなく自己完結させればよいからだ。これはあなた自身が認めている。 また、あなたのいう「自分の哲学の基礎」は「命題」でしかなく、質問者のいう「哲学の基礎」を自己都合によって曲解している。 「議論の出発点」と「哲学をするにあたる前準備」との差がある以上、誤釈といえる。
愛善院
論点がおかしい。 質問は「それが哲学となりうるかどうか」ではない。 「基礎」となりうるかどうか、また、そうしたときにどう思うかを求めている。 さらに、質問者はすでにいない。