哲学の基礎として「自死は悪」を置く事をどう考えますか?

non
古来より多くの哲学者が自死は悪であると考えてきましたが、それは完全な解答ではなく
あくまで多数派と言うに過ぎません。
ヒュームやカミュの様に悪ではないと考える立場もあります。
また、尊厳死の様に耐えられない苦痛を終わらせる為の自死も悪か?
あるいは映画アルマゲドンの様に多くの人を助ける為の自死も悪か?と聞かれると答えに詰まるのではないでしょうか?
従って基礎とするなら慎重に考えるべきと言うのが私の主張です。

ユリ

愛善院
日本では姥捨山という概念がありますが、捨てられることを自ら望む姥は「悪」と評価しえるでしょうか。
とある組織の秘密を守らないと、その組織はおろか家族や国そのものが危ないとする、自死以外に秘密を守れそうにないとするとき、その行為に限定して「悪」と評価し得るでしょうか。
ちくたく

サイダー
「自死は悪」と思う理由を何か持ってるなら、その理由を言語化して基礎にするべきです。

Bo

りんりんボー裙

或
哲学ってのは自分の中にある物で、共有こそすれ人に押し付けるもんじゃない訳だから反発があるのもわかる。
でも、それって逆に言えば「哲学」として自死は悪という言葉が発せられてる以上は押し付けてきてる訳じゃ無いって事になるのを知るべきではある。
哲学として語ってる時点で「俺はこう生きる」であって「お前らこう生きろ」では無いんだよ。
分かりやすく言うなら
「俺は自死という選択をしない事を前提に自分の哲学を磨くぜ!」
って言ってるだけなんすよ。
だから人が唱える哲学をいちいち否定するのは不毛というか、勝手に取捨選択すれば良いわけです。
「俺の生き方や考え方に興味がある奴は是非一部だけでも参考にしてくれよな!」
って人にわざわざお前の考え方には当てはまらない奴が居る!って言っちゃってる事になるからね。それはあんまり良くないよね。
そういう意味では俺は「自死は悪」派ですよ。理由は絶対死にたくないからです。
これくらいシンプルな話なんだよね。
これを「哲学の基礎」に置いて生きるなら「生きるための哲学」が生まれる訳で、逆に自死を良しとするなら「死に方を模索する哲学」も生まれるでしょう。要はそういう事。
基礎が定まらないうちは何も決まらんのさ。
だからどちらも否定しちゃいけない。
まぁ、悪って言葉が強過ぎて押し付けてきてるように見えるのは同意する。
ただ、「哲学の基礎として置く」と明記してる時点でなんら間違いは無い。
むしろそれほど強烈に「生きる事」にこだわる人間の哲学に興味が湧くくらいになれたら素敵だよね。

⭐️みーちゃん⭐️

Jaco_ten
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