哲学の基礎として「自死は悪」を置く事をどう考えますか?

ノゾ
(違ってたら申し訳ない)
それを基礎に据えると、その下にはさらに多くの基礎が敷かれて、とりわけ生命が誰にとって大事なのかとか、個人的幸福や快楽よりも優先度の(はるかに)高い「生きて果たす義務」の存在とかが設置される。
その誰かとは?義務とは?といった話は、政治や法の在り方にも繋がるし、個人と全体のバランスの話にもつながる。
なんらかのたどり着いた考えから逆にたどって前提を壊すこともあると思う。
広がりの大きな、楽しいアプローチじゃないかな。
たれぱん
「我思うに我あり」という言葉があったと思います。これが哲学の基礎にどのくらい影響しているかわかりませんが、私はこれが哲学の起点かなと思っています。その自己の営みをやめるということは、考える事ができなくなるし、起点が無くなると比較的もできなくなるからかな。

コパ🔍
それが哲学の基礎なんか?
はじめて知ったわ🤣
自死とは何か?
自ら死を選び取る行為
人は自然とこう解釈する
しかし
本当はそれだけではない
生きながらの死
それが一番の悪
自らを省みることなく
ただ
惰性のままに生きる行為
コレこそが
真の悪
自分が可哀想やとは…
思わんかね?🤣

しん
哲学の役割は、むしろその命題自体を問いに開くことにあります。たとえば、カントは自死を人格の尊厳に反するものとして厳しく否定しましたが、その根拠は「人間を単なる手段として扱ってはならない」という定言命法にあります。一方で、カミュは『シーシュポスの神話』の冒頭で「哲学の根本問題は自殺である」と述べ、自死の是非を前提にせず、むしろ「生きるに値するか」という問いそのものから出発しました。
さらに、ニーチェのように、生の肯定を重視しつつも、価値の基準を固定的な善悪に還元すること自体を疑う立場もあります。ここでは「悪」という語が何を意味するのかが再び問題になります。
したがって、「自死は悪」を基礎に据える立場には少なくとも三つの難点があります。
第一に、「悪」とは何かというメタ倫理的な問題を未検討のまま前提化してしまうこと。
第二に、個別の状況(極限的苦痛、尊厳死など)を十分に考慮できなくなること。
第三に、哲学の出発点としては結論を先取りしていること。
より哲学的なアプローチは、この命題を「前提」ではなく「問題」として扱うことです。つまり、「なぜ自死は悪とされうるのか」「そもそも悪とは何か」「生の価値はどこにあるのか」といった問いを開いたまま考察する。そのほうが、倫理・存在・意味といった広い領域に接続され、思考の射程が豊かになります。
要するに、「自死は悪」を基礎に据えることは一つの倫理的立場ではありますが、哲学の基礎としてはやや閉じた出発点です。哲学者としては、それを出発点にするよりも、むしろ揺さぶる対象にしたいところです。

紀文屋
しかしながらその行為を『即ち悪』と表現する背景に、故人に対して何かしらの思い入れがあるのではないかとも思います。

高倉健一
しかし回復の見込みが無くて、本人さんも「もう良い」と思っている人にはどうにかしてあげたい気はある。

ノゾ
古代からアリストテレスが国家に対する悪と言った一方で、セネカやエピクテトスは繰り返しその道が「用意されている」ものとして肯定してるし、近世でもカントは義務に反するとする一方で、ショーペンハウアーはそれを罪悪とすることをまあまあの痛烈さで批判してる。
現代でも自己決定の自由や、生の苦痛からの解放の合理的手段として、古くからの考えを支持する人は少なくない印象で、それを悪とすることは、基礎と呼べるほどの決着・定着に至るには程遠いと思うのだけど。
或いは基礎という言葉の定義の不一致であって、思考を始めるにあたって仮にそれをスタート地点に置いてみる…といった意図なんだろうか?

あた
(逆にこーゆーと、福祉学や経済学とまあまあシームレスなんだよなア😅)
自死というのが「この世における決定的な不幸の決断」だとみなされる以上は、哲学においては学問上の敗北である可能性が大きいですなあ。
まあ、その枠を一旦外して考え始めるのが哲学だとも思うし、それぞれの考え方が人間の枠そのものを拡張するんだとも思うから、敢えて枠自体が絶対だとかは、思わないけど。。
ま、今のところ、
この世で生きてなきゃ、この世での考えを突き詰める事もできないんだよね、残念ながら😅😅

ひー
たろう☸️
全知全能な神が授けた命を自死によって自ら無くすのは、神に対する冒涜だという考え方っぽいですね
日本では切腹文化でカッコいい死に方を考えている人もいましたから、各文化で違うのでしょうね
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