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ハーロック
男は、朝が嫌いになっていた。
会社にいた頃の朝は、敵だった。眠い、だるい、行きたくない。
辞めた今の朝は、もっと厄介だ。何も持ってこない。
カーテンの隙間から光が差す。
それでも起きる理由がない。予定がない。通知も鳴らない。
冷蔵庫を開け、卵を落として、味の薄い朝を流し込む。
テレビは勝手に喋る。ニュースはいつも「どこかの誰か」の話だ。
男は口座残高と相場を確認する。数字が増えている。減っていない。
――生涯、お金には困らない。
それを確信した瞬間、早期退職に応募した。
独身を貫いたのも、余計な出費を抑えるためだった。誰かと暮らせば金が減る。子どもがいれば金が減る。交際も趣味も、コスパが悪い。
そう割り切ってきた。
それで、勝ったはずだった。
最初の半年は勝利だった。平日に散歩できる。昼から風呂に入れる。誰にも頭を下げなくていい。
だが二年目のある日、ふと気づく。
自由って、こんなに長いのか。
時間って、こんなに重いのか。
男は夕方、近所の喫茶店に通うようになった。
「常連」になれば、何かが変わるかもしれないと思った。
けれど店員の挨拶は丁寧でも、そこから先はない。
隣の席の会話は楽しそうなのに、自分の席は透明な壁で囲われている。
カップの中身だけが減っていく。
ある夕暮れ、男はため息をついた。
「……金はある。時間もある。
でも、誰もいない」
そのとき、向かいの席に黒い服の男が座った。
黒いコート。黒い手袋。
いつ来たのか分からないのに、最初からそこにいたみたいな顔をしている。
関西弁で言った。
「自分、ええ顔しとるな。“勝った顔”や。
でもいま、“勝ったのに空っぽ”って顔でもある」
男は眉をひそめる。
「なんだ、あんたは」
「ただの通りすがりや。ほな聞くで。自分、何に勝ったんや」
男は鼻で笑った。
「老後だよ。金。リスク。
全部避けた。だから勝った」
黒い服の男は、頷いてやる。
「せやな。避ける勝ちはした。
ほな次や。避けた先に、何が残った?」
男は言葉に詰まった。
残ったのは静けさだ。静けさが、増えすぎた。
黒い服の男は机を指で軽く叩いた。
「金が増えるのは分かる。時間が減るのも分かる。
でもな、“自分の存在が増える瞬間”は、どこで生まれると思っとる?」
男は不機嫌そうに吐き捨てる。
「存在価値? そんなもん幻想だろ」
黒い服の男は笑わない。
「ほな、なんで自分はいま淋しいんや」
その一言が、喉に刺さった。
淋しさは理屈を超えて本物だった。
男は目を逸らす。
「……話し相手がいないだけだ」
「ええやん。ほな本題や。
話し相手ってな、“金”で買う方法もある。けど自分が欲しいの、たぶんそれちゃう」
男の眉間が寄る。
「じゃあ何だっていう」
黒い服の男は、言葉を置くみたいに言った。
「“自分がここにおってええ”って感覚や。
誰かの世界の中に、自分の席があるって感覚」
男は黙った。
それは確かに金で買えない。
黒い服の男は続ける。
「会社におった時は、その席があった。
役職とか評価とか関係ない。“ここにおる理由”が毎日配達されとった」
「辞めて、理由の配達が止まった。
自分はいま、理由のない自由の中で溺れとる」
男の胸が、情けなさで熱くなる。
自由は夢だったのに、現実の自由は重い。
黒い服の男が言う。
「自分が今からやることは難しくない。
金を増やすのをやめろとは言わん。
ただ、増やすものを一個足す」
男は警戒する。
「宗教は断るぞ」
「ワシも嫌いや」
黒い服の男は即答した。
「増やすのはな、
“ありがとう”や」
男は眉をひそめた。
「くだらん」
黒い服の男の声が少しだけ強くなる。
「くだらん言うな。
自分がいま欲しがってるの、それやのに」
男は反論できなかった。
淋しさの正体は、誰かに必要とされたい欲求だ。
それを認めるのが怖かっただけだ。
黒い服の男は、息を吐く。
「金は壁になる。壁は大事や。
せやけど壁だけ立派で、家の中が空っぽやったら寒いやろ」
男はカップを見つめた。
コーヒーが冷めていく。
「人ってな、誰かに名前を呼ばれた瞬間に、心臓が動く。
それを“面倒”で切り捨ててきたんやろ」
男は、ゆっくり頷いた。
「……面倒だった。損だと思ってた」
「せや。でも自分、いま分かった。
損やない。“生きる手触り”や」
黒い服の男は立ち上がった。
「ほな宿題。来週、説明会に申し込め。
児童養護施設のボランティアのやつや。ちゃんと手続き踏め。身分証も要る」
男は目を見開く。
「……なんでそんなところに」
「自分、金も時間もある。
でも今必要なんは、金でも時間でもない。
“誰かの一日”に混ざることや」
男は反射で言った。
「俺なんかが行っても邪魔だろ。子どもと話せる自信もない」
黒い服の男は淡々と言う。
「自信いらん。上手にやろうとすんな。
“そこにおる”だけでええ日がある」
「子どもってな、上手い大人より、逃げへん大人が好きや」
男は黙った。
拒絶されるのが怖い。役に立たなかったら、空っぽが増えるのが怖い。
黒い服の男は、その怖さを見抜いて言った。
「損得で生きてきたんや。
ほな今度は、損得で測れんもんに手ぇ伸ばせ」
男は小さく笑った。
「随分、勝手に言うな」
「勝手に言うのがワシの仕事や」
黒い服の男は、それだけ言って消えた。
#希望 #自作小説 #黒い服の男

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キンポールームはどこにある?
キンポールームは、主に日本国内のいくつかの場所に存在しています。具体的には、以下のような場所で見つけることができます。
東京: 都内の複数のエリアにキンポールームがあり、特に新宿や渋谷周辺が人気です。
大阪: 大阪市内にもいくつかのキンポールームがあり、梅田や心斎橋エリアが中心です。
名古屋: 名古屋市内でもキンポールームがあり、栄や名駅周辺に位置しています。
これらの場所では、キンポールームの特徴を活かした多様なサービスが提供されていますので、訪れる際には事前に調べてみると良いでしょう。

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