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ハーロック

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第二話 (全二話)


翌週、男は施設の前に立っていた。
門の向こうから、子どもたちの声が聞こえる。
胸が妙に苦しくなる。
怖い。帰りたい。

でも、ドアは開いた。
職員が会釈して、男に言った。

「来てくださってありがとうございます。
今日は絵本の読み聞かせと、宿題の見守りをお願いできますか」

男は喉が乾いたまま頷いた。

絵本を手に取ると、ページが思ったより軽い。
声を出すと、思ったより震えた。

最初は子どもたちも警戒していた。
でも、一人の小さな男の子が、男の指先を見て言った。

「おじさん、手、きれいだね」

男は驚いた。
褒められた記憶が、いつの間にか遠い。

「そうか。……ありがとう」

すると別の子が言う。

「その本、もう一回読んで」
「次、こっち!」
「ねえ、おじさん、名前なに?」
「明日も来る?」

“明日も来る?”
その一言が、男の胸の奥に刺さった。

帰宅して相場を見るのとは違う。
資産が増えるのとは違う。
でも、何かが増えている。

男は、翌日も行った。
翌週も行った。
名前を覚えられ、あだ名がつき、
「おじさんじゃないよ、〇〇さんだよ」と呼ばれるようになった。

ある日、宿題を嫌がる女の子がいて、男は黙って隣に座った。
説教もしない。励ましもしない。
ただ、鉛筆を削って渡した。

女の子はぼそっと言った。

「……ありがとう」

その瞬間、男の目から涙が落ちた。
ぽろっと。勝手に。
自分でも驚くくらい、あっさりと。

子どもたちは「え、泣いてる?」と笑った。
笑いは悪意じゃない。素直な驚きだ。
男は慌てて拭こうとして、拭けなかった。

なぜ泣いているのか、意味が分からない。
悲しくはない。
むしろ、温かい。

その時、廊下の奥に黒い服の男が立っているのが見えた。
いつもの黒。いつもの手袋。
でも今日は、少しだけ楽しそうに見えた。

男が目で「なんだこれは」と問いかけると、
黒い服の男は関西弁で、口の形だけで言った。

――やっと、増えたな。

男はさらに涙が出た。
資産が増えた時には、一滴も出なかった涙が、
今は止まらない。

泣きながら、男は初めて気づく。

自分はずっと、
“減らさないため”に生きてきた。

でも今は、
“誰かの一日を少しだけ明るくするため”に動いている。

その動きが、結果的に、
自分の心を一番明るくしてしまう。

意味はまだ分からない。
でも、手触りは分かる。
自分の席が、ここにできている。

男は涙を拭き、子どもたちに笑った。

「……もう一回読むか。今度は、もっと上手に読む」

子どもたちが、わっと集まる。
小さな手が、男の袖を引く。
その軽さが、人生の重さを少しだけほどいていった。


#希望 #自作小説 #黒い服の男
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第一話(全二話)

男は、朝が嫌いになっていた。

会社にいた頃の朝は、敵だった。眠い、だるい、行きたくない。
辞めた今の朝は、もっと厄介だ。何も持ってこない。

カーテンの隙間から光が差す。
それでも起きる理由がない。予定がない。通知も鳴らない。

冷蔵庫を開け、卵を落として、味の薄い朝を流し込む。
テレビは勝手に喋る。ニュースはいつも「どこかの誰か」の話だ。
男は口座残高と相場を確認する。数字が増えている。減っていない。

――生涯、お金には困らない。

それを確信した瞬間、早期退職に応募した。
独身を貫いたのも、余計な出費を抑えるためだった。誰かと暮らせば金が減る。子どもがいれば金が減る。交際も趣味も、コスパが悪い。
そう割り切ってきた。

それで、勝ったはずだった。

最初の半年は勝利だった。平日に散歩できる。昼から風呂に入れる。誰にも頭を下げなくていい。
だが二年目のある日、ふと気づく。

自由って、こんなに長いのか。
時間って、こんなに重いのか。

男は夕方、近所の喫茶店に通うようになった。
「常連」になれば、何かが変わるかもしれないと思った。

けれど店員の挨拶は丁寧でも、そこから先はない。
隣の席の会話は楽しそうなのに、自分の席は透明な壁で囲われている。
カップの中身だけが減っていく。

ある夕暮れ、男はため息をついた。

「……金はある。時間もある。
でも、誰もいない」

そのとき、向かいの席に黒い服の男が座った。
黒いコート。黒い手袋。
いつ来たのか分からないのに、最初からそこにいたみたいな顔をしている。

関西弁で言った。

「自分、ええ顔しとるな。“勝った顔”や。
でもいま、“勝ったのに空っぽ”って顔でもある」

男は眉をひそめる。

「なんだ、あんたは」

「ただの通りすがりや。ほな聞くで。自分、何に勝ったんや」

男は鼻で笑った。

「老後だよ。金。リスク。
全部避けた。だから勝った」

黒い服の男は、頷いてやる。

「せやな。避ける勝ちはした。
ほな次や。避けた先に、何が残った?」

男は言葉に詰まった。
残ったのは静けさだ。静けさが、増えすぎた。

黒い服の男は机を指で軽く叩いた。

「金が増えるのは分かる。時間が減るのも分かる。
でもな、“自分の存在が増える瞬間”は、どこで生まれると思っとる?」

男は不機嫌そうに吐き捨てる。

「存在価値? そんなもん幻想だろ」

黒い服の男は笑わない。

「ほな、なんで自分はいま淋しいんや」

その一言が、喉に刺さった。
淋しさは理屈を超えて本物だった。

男は目を逸らす。

「……話し相手がいないだけだ」

「ええやん。ほな本題や。
話し相手ってな、“金”で買う方法もある。けど自分が欲しいの、たぶんそれちゃう」

男の眉間が寄る。

「じゃあ何だっていう」

黒い服の男は、言葉を置くみたいに言った。

「“自分がここにおってええ”って感覚や。
誰かの世界の中に、自分の席があるって感覚」

男は黙った。
それは確かに金で買えない。

黒い服の男は続ける。

「会社におった時は、その席があった。
役職とか評価とか関係ない。“ここにおる理由”が毎日配達されとった」

「辞めて、理由の配達が止まった。
自分はいま、理由のない自由の中で溺れとる」

男の胸が、情けなさで熱くなる。
自由は夢だったのに、現実の自由は重い。

黒い服の男が言う。

「自分が今からやることは難しくない。
金を増やすのをやめろとは言わん。
ただ、増やすものを一個足す」

男は警戒する。

「宗教は断るぞ」

「ワシも嫌いや」

黒い服の男は即答した。

「増やすのはな、
“ありがとう”や」

男は眉をひそめた。

「くだらん」

黒い服の男の声が少しだけ強くなる。

「くだらん言うな。
自分がいま欲しがってるの、それやのに」

男は反論できなかった。
淋しさの正体は、誰かに必要とされたい欲求だ。
それを認めるのが怖かっただけだ。

黒い服の男は、息を吐く。

「金は壁になる。壁は大事や。
せやけど壁だけ立派で、家の中が空っぽやったら寒いやろ」

男はカップを見つめた。
コーヒーが冷めていく。

「人ってな、誰かに名前を呼ばれた瞬間に、心臓が動く。
それを“面倒”で切り捨ててきたんやろ」

男は、ゆっくり頷いた。

「……面倒だった。損だと思ってた」

「せや。でも自分、いま分かった。
損やない。“生きる手触り”や」

黒い服の男は立ち上がった。

「ほな宿題。来週、説明会に申し込め。
児童養護施設のボランティアのやつや。ちゃんと手続き踏め。身分証も要る」

男は目を見開く。

「……なんでそんなところに」

「自分、金も時間もある。
でも今必要なんは、金でも時間でもない。
“誰かの一日”に混ざることや」

男は反射で言った。

「俺なんかが行っても邪魔だろ。子どもと話せる自信もない」

黒い服の男は淡々と言う。

「自信いらん。上手にやろうとすんな。
“そこにおる”だけでええ日がある」

「子どもってな、上手い大人より、逃げへん大人が好きや」

男は黙った。
拒絶されるのが怖い。役に立たなかったら、空っぽが増えるのが怖い。
黒い服の男は、その怖さを見抜いて言った。

「損得で生きてきたんや。
ほな今度は、損得で測れんもんに手ぇ伸ばせ」

男は小さく笑った。

「随分、勝手に言うな」

「勝手に言うのがワシの仕事や」

黒い服の男は、それだけ言って消えた。


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