中国伝来の大乗仏教では 阿弥陀如来が一切の衆生を救済し浄土させるって言うけれど、そしてそこに行くまでのまだ如来にはなっていないが慈悲喜捨もう心にも目覚めたものを 菩薩といいすでにもうこの世には生まれて来なくてもいいけれども 救済のために何度も輪廻転生を繰り返す」って言うんだけど余計なお世話だ。人は誰にも救われないで 自分で 悟り 解脱すればいいんだ。宗教としての客集めも含めて そんな衆生の救済 など ちらつかせるから 南無阿弥陀仏 でも 南妙法蓮華経でもそんなお題目 作り出すから そしてそれを金と引き換えに売るようなことをするから大衆は愚かなままなんだ。と考えたりもする。
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中国伝来の大乗仏教では 阿弥陀如来が一切の衆生を救済し浄土させるって言うけれど、そしてそこに行くまでのまだ如来にはなっていないが慈悲喜捨もう心にも目覚めたものを 菩薩といいすでにもうこの世には生まれて来なくてもいいけれども 救済のために何度も輪廻転生を繰り返す」って言うんだけど余計なお世話だ。人は誰にも救われないで 自分で 悟り 解脱すればいいんだ。宗教としての客集めも含めて そんな衆生の救済 など ちらつかせるから 南無阿弥陀仏 でも 南妙法蓮華経でもそんなお題目 作り出すから そしてそれを金と引き換えに売るようなことをするから大衆は愚かなままなんだ。と考えたりもする。
toshiii 投稿者
素晴らしい ご意見 どうもありがとうございます そうですね インドから中国 そして日本とチベットへ流れていったものですけれども その中で何人かの大乗の鉄人はおります例えば中論の龍樹とか。 ですから その一人一人の熱意 情熱に対しては否定する気はありません。例えば 上座部が 今で言うところの貴族や 王族と癒着してエゴイスティック とも言える 自分自身の解脱のみを求めたという批判は確かに嘘とも思っていません。
ナオキ
ルターの宗教改革を思い出しましたが、そもそも浄土真宗や日蓮宗も鎌倉時代に起きた信仰宗教という事で、当時の武士や庶民派にも広めるための単純化と飢饉や動乱に苦しむ民主の救済が目的だったようです。この流れは日本の宗教改革と呼ばれているようです。豊かになった現在では、原理主義的な信仰の方が求められそうですね。
さすけ
大乗は、原理化する上座部を離れて大衆へ開こうとした点で、その志には肩を持ちたい気がしています。 でも何であれ大衆化することは「解釈の自由」を促進することでもありますから、カオスを招くリスクを引き受けなくちゃなりませんよね。 これは宗教の話に限らない難題だと思います。
toshiii 投稿者
まるでサブスクのように 檀家として定期的に金を取り続けた という 私は罪と申しますがは免れません。するべきは 衆生を救うことではなく 衆生を賢く学ばせることだと思います 宗教に例えていましたが それは 政治も同じことであって 多くの 丈夫 組織というのは 衆生がおろかであったままの方が都合が良いのです 大衆が全て 本当の意味で賢くなってしまったら彼らの利権は崩壊してしまう。しかし 残念ながら それを存続させているのは 今の大衆のアチチュード だということができます。
toshiii 投稿者
仏陀 ですら その場所場所の有力者 言ったらお金持ちの世話になってうまいもの食っていた素晴らしい精舎を与えられていたというのも 私は実は批判的に見ています。しかし何より人間社会で システムとなってしまったものは その構成要素である個人を本位とせずにシステムの存続のために動き始めるという どうしようもない事実がございます。確かに スポンサー 当たる 貴族から の布施で修行をしていた上座部仏教、それに反発したのが大乗であそれはある種のイニシアチブの争い 権力争い でもあったと思います もうその時ですでに腐敗はしていたわけです。ただ 衆生 相手にした時点で そしてそこから 簡単な 念仏や 題目を与え