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リピ散歩『中山道旅編17日目⑤』

旅から一週間以上経過してしまいましたが17日目ラストの投稿です

🔹塩尻峠から塩尻宿まで長い下り坂となり、チャリのブレーキを『キーキー』鳴らしながら坂を下ります。お地蔵様騒がしてごめんなさい🥺

🔹坂の途中『東山の一里塚』があります。南塚が現像する日本橋から57里目の一里塚です。また塩尻市に入ると途中で何度か『中山道分間延絵図』を見かけます。文間延絵図は幕府の道中奉行が五街道や脇往還を実際に測量・調査をして1806年に完成した道中絵図です。旅人全てが絵図を熟知していたわけではありませんが、簡易的な地図と道標や一里塚を頼りに街道を進んで行った先人には頭が下がります

🔹長野自動車道を越え柿沢地区へ入ると『永井坂の首塚・胴塚』があります。1548年3月、上田原の戦いで村上義清に敗れた武田晴信(信玄)は信濃攻略戦において最大のピンチを迎えました。この際、村上軍の勝ちに乗じて武田軍を信濃から駆逐しようとした信濃守護小笠原長時でしたが、同年7月に行われた塩尻峠の戦いにおいて武田軍の奇襲により大敗、千人以上の戦死者を出し武田軍の信濃進行を食い止めることはできませんでした。塩尻の戦い後に武田軍ら領地へ戻りますが戦場には多くの戦死者が打ち捨てられたままとなっており、これを哀れに思った柿沢の村人がこの地に埋葬したそうです。尚、近年の研究では塩尻峠の合戦は塩尻峠ではなくここから南へ5km ほどの場所にある勝弦峠とする説が有力となっています。

🔹塩尻宿へ入ります。江戸時代、太平洋側で作られた塩を『表塩』日本海側で作られた塩は『裏塩』と呼ばれ、両方の塩がこの地で交わることから〝塩尻〟と呼ばれたそうです。塩尻宿は塩輸送の拠点であり、中山道、伊那街道、五千石街道などの街道が交わる宿場であったことから宿場は大いに発展し、旅籠の数は中山道の宿場町で2番目に多い75軒あったそうです。
また、宿の手前には木曽義仲の子孫である木曽義方が義仲の菩提を弔うために創建した永福寺(観音堂は1855年建立され市文化財)宿の終わりには延喜式神名帳簿(927年書)に記載され坂上田村麻呂や木曽義仲も参拝した阿禮神社があります(狛犬は変わった形をしてます)

🔹街道を進み昭和電工の先でフィニッシュです。続きは秋かな‥

#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道 #塩尻峠 #塩尻宿
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