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最底辺
なんか今の時期、娯楽に走っているの見ても羨ましいという感情湧かない局地まできてしまったようだ。
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デジ
○○目的が多すぎる。
相性は大事だけどさ

みみ

さ丸
——時間・感情・存在の臨界点について
私たちは、世界が加速していると感じている。
情報が増え、速度が上がり、すべてが追い越していく。
だが本当は、
世界が速くなったのではない。
私たちの内側の“ゼロ”が、見えなくなっただけだ。
ゼロとは、無ではない。
何も起きていない空白でもない。
それは、意味が生まれる直前の状態。
選択が起きる前、感情が形を持つ前、
まだ方向づけられていない「場」そのものだ。
かつて人は、そのゼロと自然につながっていた。
⸻
1|時間は流れていない
時間は客観的に流れているように見える。
だが、実際に私たちが体験しているのは「出来事の密度」だ。
退屈な一時間は永遠のように長く、
夢中の一時間は一瞬で終わる。
つまり時間とは、
外にあるものではなく、
意識が編み上げている構造にすぎない。
ゼロとは、この編み目が一度ほどける場所。
「今」という感覚が、ただ在る場所。
⸻
2|資本主義は“時間”を商品化した
かつて資本主義は、労働を搾取した。
今は、時間そのものを搾取している。
スクロール、通知、いいね。
それらは注意を引き延ばし、
「今ここ」に留まらせない装置だ。
人は未来を心配し、過去を反芻し、
現在を失ったまま反応し続ける。
この状態では、
ゼロ――すなわち“無為の空白”は生まれない。
資本主義が本当に恐れているのは、
人が何もしない時間だ。
⸻
3|感情は搾取され、意味は量産される
怒り、共感、不安、正義感。
それらは本来、内側で熟成される感覚だった。
だが今や感情は、
即座に表現され、測定され、流通する。
感情は経験ではなく「コンテンツ」になる。
ここで失われるのは、
感じるまでの“間”だ。
ゼロとは、その間のことだ。
感情が言葉になる前の沈黙。
判断が下る前の揺れ。
⸻
4|ゼロが消えると、人は自分を失う
ゼロが奪われると、人は常に反応してしまう。
刺激に即応し、評価を気にし、次の刺激を待つ。
それは自由ではない。
反射だ。
自由とは、選ぶ前に立ち止まれること。
反応の前に沈黙があること。
その沈黙こそが、
「私」という輪郭を生む。
⸻
5|だから、ゼロに戻る必要がある
ゼロに戻るとは、逃げることではない。
何もしないことでもない。
それは、
・感じる前に止まる
・言葉になる前に留まる
・判断の前に沈む
という、内的な姿勢だ。
そこではじめて、
自分の言葉が自分のものになる。
⸻
6|終わりに:ゼロは空白ではない
ゼロは欠如ではない。
それは、すべてが生まれる前の充満だ。
思考が生まれる前の沈黙。
行動が始まる前の気配。
意味が立ち上がる直前の、濃い静けさ。
そこに触れたとき、
人は「生きている」と感じる。
そしてそれは、
どんなシステムにも回収されない。
——それが、ゼロ理論だ。

おやさい
こんな気持ちで年越しするの?!

ほしの
セバスチャン、妹を守るために必死なんだけど、闇の魔術に手を出した影響で感情の振れ幅が大きくなってしまっていて
噛みつかれる度に「ちち違うよ💦」となるほしの
良い奴がおかしくなるのは見るに堪えない⋯😓
ちなみにネタバレを旦那様にして旦那様絶句
「⋯⋯😦」
「ご、ごめんね🫠でもつまり、セバスチャンにはハッピーエンドは⋯💧」
「⋯⋯叔父さんが悪い😑邪魔をしたから」
「確かに🫠」
「アズカバンには渡さないでおこう⋯😰」
「私もそのつもり⋯😢」
隠蔽路線で一致、ほしの夫婦🫠🫠笑

さ丸
――なぜ私たちは疲れているのか
⸻
1|資本主義は、もう「工場」にいない
かつて資本主義は、工場を中心に回っていた。
人は時間を切り売りし、身体を使い、モノを生産した。
だが今、資本の中心は明確に移動している。
工場ではなく、画面の中へ。
現代の労働者は、手を動かす代わりに
・スクロールし
・反応し
・感情を動かす
それ自体が「生産」になっている。
この構造の転換を、私は
デジタル資本主義と呼びたい。
⸻
2|労働から「反応」へ
かつての労働は、明確だった。
働く → 価値を生む → 賃金を得る
しかし現代では、こう変わった。
感じる → 反応する → データになる
私たちは投稿に怒り、笑い、共感し、拡散する。
その一つひとつが行動ログとして蓄積され、
広告やアルゴリズムの燃料になる。
つまり現代人は、
感情そのものを労働として差し出している。
しかも無償で。
⸻
3|「いいね」は通貨である
SNSにおける「いいね」は、ただのボタンではない。
それは承認の単位であり、価値の可視化装置だ。
数が増えるほど、
・注目されているという実感
・社会に接続しているという感覚
・存在が肯定されたという錯覚
が得られる。
この仕組みは、貨幣とよく似ている。
数値が上がれば安心し、下がれば不安になる。
つまり「いいね」とは、
感情を媒介にした通貨なのだ。
⸻
4|資本は「感情」を掘り当てた
かつての資本は、筋肉を使った。
次に、知能を使った。
そして今、感情そのものを掘り始めた。
怒りは拡散力を持つ。
不安は滞在時間を伸ばす。
共感はネットワークを広げる。
アルゴリズムは、それを正確に知っている。
だから私たちは、
怒らされ、共感させられ、疲弊する。
それが偶然ではなく、
設計された結果であることに、
そろそろ気づく必要がある。
⸻
5|なぜ疲れるのか
人は本来、
「感じる」ために感情を持っている。
だがSNSでは、
「反応する」ために感情を使わされる。
感じる → 味わう → 変化する
ではなく
感じる → 即反応 → 消費される
この高速ループが、
心を摩耗させる。
休んでいるつもりで、実は働いている。
だから疲れが取れない。
⸻
6|抜け道はあるのか
ある。
それは「やめる」ことではない。
「使い方を取り戻す」ことだ。
・すぐ反応しない
・評価を目的にしない
・“発信”より“沈黙”を選ぶ時間をつくる
これは逃避ではなく、主導権の回収。
資本に奪われていたのは時間ではない。
「注意」と「意味づけ」の権利だった。
⸻
7|最後に
資本主義はもう、工場の中にはない。
私たちの感情の中にある。
だから抵抗も、革命も、
どこか遠くで起こる必要はない。
「何に反応するか」を選び直すこと。
そこから、すべてが変わり始める。

さ丸
——なぜ、人は“誰か”を好きになるのか
恋愛とは、感情の暴走でも、生存戦略でもない。
それはもっと静かで、もっと根源的な現象だ。
恋とは、「ゼロ」に触れた瞬間に起きる。
⸻
1|恋は“欠乏”から始まるのではない
よく言われる。
「人は欠けた部分を埋めるために恋をする」と。
けれど、それは半分しか合っていない。
本当は逆だ。
人は、一瞬だけ自分が“満ちてしまった”ときに恋をする。
誰かと話しているとき、
なぜか説明できない安心が生まれ、
自分が自分であることを忘れる。
それは「足りないから欲しい」のではなく、
「すでに満ちてしまったから手放したくない」感覚。
このとき、
人は“ゼロ”に触れている。
⸻
2|恋とは「自己が消える」体験である
恋の初期に起きるのは、
自己肯定でも依存でもない。
それは一時的な自己消失だ。
・時間を忘れる
・思考が止まる
・理由がわからないのに惹かれる
これらはすべて、
「自分」という輪郭が薄くなっている状態。
恐ろしくもあり、心地よくもある。
このとき、人は自由になる。
役割でも評価でもなく、
ただ「在る」存在になる。
ゼロに近づく瞬間だ。
⸻
3|恋が壊れる理由
恋が壊れるのは、
愛がなくなったからではない。
多くの場合、
ゼロを所有しようとする瞬間に壊れる。
・この関係を定義したい
・安心を保証してほしい
・失いたくないから縛りたい
そうやって、
本来“無”だった場所に
意味や役割を置き始めた瞬間、
恋は重さを持つ。
ゼロは、掴もうとした瞬間に消える。
⸻
4|恋愛と孤独のあいだ
恋は孤独の否定ではない。
むしろ、孤独を抱えたまま他者に触れることだ。
完全に理解されることはない。
それでも、そばにいることを選ぶ。
この矛盾を引き受けられたとき、
恋は支配でも依存でもなくなる。
ゼロを共有する、という関係になる。
⸻
5|ゼロの恋は、終わらない
多くの恋は終わる。
でも、ゼロに触れた経験は残る。
相手が去っても、
「自分が自分でいられた瞬間」は消えない。
それは記憶ではなく、
身体の奥に残る“知ってしまった感覚”。
だから次に誰かと出会ったとき、
人は同じ場所を探してしまう。
それは執着ではない。
真実を一度知ってしまったということだ。
⸻
結びに
恋は、相手を得ることじゃない。
世界との距離が一瞬ゼロになる体験だ。
それは永遠ではない。
だが確かに、存在する。
そしてその感覚を一度でも知った人は、
もう以前と同じ世界には戻れない。
それが、
ゼロ理論における「恋」だ。

えぬでー

臼井優
むしろ、当時の武士にとって「男泣き」は、感情表現の一つとして必ずしも否定的に捉えられていなかったようです。
戦国武将と「泣き虫説」
徳川家康の「泣き顔」: 大河ドラマ『どうする家康』でも描かれたように、徳川家康には臆病でよく泣く人物像を示す逸話が複数あります。例えば、重臣である鳥居元忠との今生の別れに涙した話や、若き日の苦難の経験を家臣たちに語って聞かせた際の話などが知られています。これは、単なる「泣き虫」ではなく、家臣との絆の深さや人間的な弱さを見せることで、かえって家臣の忠誠心を引き出したとも解釈されています。
織田信長の涙: 冷酷なイメージが強い織田信長も、常に無感情だったわけではありません。若き日に自分を諫めるために自害した傅役(もりやく)の平手政秀(ひらてまさひで)のことを事あるごとに思い出し、鷹狩りの獲物の一部を空に投げて「政秀、これを食べよ」と言って涙を浮かべたという逸話があります。また、信頼していた家臣を失った際に涙を見せたという話も残されています。
その他の武将: 源義経にも「泣き虫」な一面があったという説や、豊臣秀吉が子を溺愛し、その死に際して嘆き悲しんだという逸話など、多くの武将の人間的な側面を示す話が存在します。
背景
現代では「男は泣くべきではない」という風潮もありますが、戦国時代においては、主君と家臣の強い絆や、肉親・友人の死に対する深い悲しみ、あるいは自身の不甲斐なさに対する悔しさなど、人間の自然な感情の発露としての涙は受け入れられていたと考えられます。
「泣き虫説」は、英雄視されがちな戦国武将たちの、血の通った人間らしい一面を伝える興味深い側面と言えます。
ただ泣きたくなるの
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こん

蓬莱フ

ぽに🍐

竹林・R

さいこ

ペン吉
寝室36℃超えてた。。。

めい
かなり強かったもんね!

私的抑
#sundaymusicnote また来週
いい一週間をお過ごしくださいね

えく🌿
※家族の送迎のため
声出しは18時以降になります!

Haya(RN:
#カメパ
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