論理と屁理屈は全く逆であるのに、論理を「屁理屈」と答える人はなぜ一定数いるのか

くりねずみ
その場合、「論理」が客観的な正しさを目指すものであるのに対し、「屁理屈」とは、受け手が「それは不当だ」と感じた理屈全般を指す、非常に主観的なレッテルとなります。
たとえばここのようなSNSの場では論争をたびたび見かけます。そのような場合において、一方が相手の正しさを認めるということは、自分の過ちを認めることと同義です。それはある種の人にとっては自尊心を傷つける出来事です。論争相手に反論できない場合、「相手の理屈全体がおかしい」ということにするしか、自尊心を守る方法がないのです。
だからそういう「論理を『屁理屈』と答える方」がいらっしゃるのだと思います。

きき🐼

愛善院
屁理屈の原義は、
屁を放ったとき、その屁がなぜそのように臭いのか論拠と筋道をたてて意見を主張していると、主張しているうちに屁の臭いのことなどどこかに消え去っているような、その場しのぎの理屈をいう。
すなわち、その理屈を受け取った側が「一時的なものである」と価値づけたときに、論理は屁理屈と評価される。特に「難解すぎて自身に構築することができかねる論理」であるとき、それは聞く側にとって「一時的に聞くことは聞いたがその場だけのことでしかない」ということとなる。

ささら
この「余裕がない」という状態は具体的には議論の場において「自尊心が傷つけられるかもしれない状態」、「相談の場においては傷つき、ただ寄り添いを求めている状態」などを想定しています
論理は確かに結論の妥当性を担保してくれますが、問題解決のための1つのアプローチにすぎません。余裕がない人にとってはこの論理によるアプローチはあまり重要ではないのかなと思います。だから、論理が「筋違い」であったり、「無意味」な屁理屈み見えてしまうのかもしれませんね。そのような意味においては「論理は屁理屈」であるというテーゼは論理を当事者が論理をどう受け止めるかに依存するので、それぞれ逆の意味を持ちながら必ずしも矛盾するものではないかと思います。
論理は絶対ではないと知ること自体が論理を扱う人間にとっての「余裕」に繋がるのではないかもしれませんね。あと関係ないですが、僕の屁は臭くないです。マジで。

✧̣̥̇︎︎𓂃⟡.·幽霞❄︎.*yhuka
「取るに足らない、屁のようにくだらない理屈」
つまり、正しかろうが論理にあっていようが
くだらない、と聞いた側が判断すればそれは屁理屈。そもそも逆ではない。論理に合わない場合が多いだけ。
たとえ床に小さな花瓶があって、明確に場所が悪かったとして(正しい論理)、それを割ってしまった人間がすぐに「場所が悪い」と主張した時、彼は正しいことをしたか?
多くの人はNO、と答えると思う。屁理屈である。
理屈をこねる前にすべきことがある。

ヒサ
言う事。
屁理屈。

ジョン・ブル
ヒトは論理的にも感情的にも納得できたことを「論理」と言うし、論理的でも感情的に納得したくないことを「屁理屈」って言うだけ。

くまさん

クモ=スパイダー

憂い顔の騎士
もっとみる 







