「人は幸せになるために産まれてきたんじゃない」と言い張れるいくつかの理由

紀文屋
それに、『ヘドニック・トレッドミル』(幸福の順応)があります。
『人は幸福になるため』と、言うよりは
『人は幸福を追い続けるため』に、産まれ、生きているのではなかろうかと、思う時もあります。

ちび

ちび
👻
たぶん逆なんだと思いますね、幸せになるために産まれてきたんじゃなくて、生きる矛先に「幸せ」という言葉を置かないと未来が読めず怖いのかと。「笑顔は幸福につながる」「愛されることは幸福につながる」こんなの古代人由来の確証バイアスですしね

三日月子
ストリートを、最後の日まで生きるのがこの人生の修行です
幸福も不幸も悲しみも何もかも、
その人に与えられた人生の修行の内容によって
幸福も不幸も、まちまちです。
どんなに真面目に頑張っても幸薄い人生や
病気ばかりや、身寄りや人に縁の無い孤独な
人生もあるし、
日々、平凡でも幸福に思える人生もあるし
どんな人生でも、最後まで修行を全うする事が
生まれきた理由です

ユー

シズ
「幸せになるために生まれた」というなら、誰かが「あなたは幸せになるために生まれる」と目的を設定したことになります。
幸福だけを人生の目的にすると、不幸が存在すること自体が「人生の失敗」になってしまう。
しかし、哲学的にはそうとは限りません。
苦しみや喪失さえも含めて「自分の人生」である、と考えることができます。
面白いのが古代ギリシャのアリストテレスです。
彼は『ニコマコス倫理学』で、人間の最高善をエウダイモニア(幸福・よく生きること)としました。ただしこれは、「楽しいことをいっぱい経験する」という意味ではありません。
人間として自分の能力を十分に発揮し、徳をもって生きることに近いのです。
つまり「幸福になるために生きる」というより、
よく生きた結果として幸福が現れるという考え方に近いのです。ニーチェなら「幸福」を目的にしないニーチェはさらに極端です。人間にとって重要なのは、苦痛を避けて幸福になることではなく、人生そのものを肯定することと考えます。
苦しみ、失敗、挫折なども含めて、「それでも自分の人生を引き受ける」という姿勢です。
「それが人生だったのか。よし、もう一度!」
という趣旨の「永劫回帰」があります。幸福だけを求める人生ではなく、苦しみまで含めて「この人生でよかった」と言えることを重視するわけです。ヴィクトール・フランクルは、強制収容所という極限状態を経験しました。
彼の思想では、人間は「幸福」を直接追求することで幸福になるのではなく、自分の人生に意味を見出すことで生きる力を得るという考え方があります。
「幸せになりたい」と考えるより、「自分は何のために生きるのか」を問います。
そして意味を持って生きた結果として、幸福が訪れることがある。サルトルなどの実存主義では、
人間には、生まれた時点で決められた人生の意味はないと考えます。だからこそ、人間には自由があります。「幸せになるために生まれた」のではなく、生まれてしまった。そして、その後どう生きるかを自分で選択していく。これが実存主義的な人間観です。最後にこの命題は「人間は幸せになるために生きる」のではなく、「生きた結果として幸せを感じることがある」のでは。

いいよE-yo

ハリー

みみみ
なので、幸せになるために生まれて来たというよりは、幸せを求めるように生まれてきた、のほうが実態としては近いと思います。幸福を求めない人間はおそらくいないので。
もっとみる 










