誤った方法で、極めて稀な正しい結果を達成した場合、それは間違っているのか?

愛善院
美味しいおはぎを手に入れて「よし、今日の仕事をおえたらこいつを食おう」とうっかり声にだしてしまった。これはマズい、うちにはG昆虫がいたはずだ、と、見渡すと、黒くぬめり光るそれが
「はは〜ん、聞きつけなすったな?」と生け捕りにすると、Gにはどこに耳があるのか知らんと思う。
試しに前脚2本をもぎ取ってから大声を出すと、ばたばたと残りの脚は動く。「と、すると、まだ聞こえていやがるな」と、後ろ脚を2本もぎ取り声を聞かせると「まだ聞こえていやがる」ようにジタバタ動く。
とうとう、全ての脚をもぎ取ったとき、大声をあげてもうごかなくなった。
「結局、全部の脚に耳があったか知らん。ともかく静かになった」
と、おはぎの近くに、脚のないGを置いておいた。
さて、問い、仮説、検証方法、結論、どれも正しくないが、ここに論理的合理的知性はあるだろうか。とやればよろしいな

さん
そんな感覚かもしれません。
時々、感謝する事が大切だと思います、空に

ぺ

伯爵
・結果が正しいのだから正しい
実用主義的な判断です。結果にコミットしてしまえば、プロセスの誤りなど問題ではありません。
・プロセスが間違っているのだから誤り
プロセスに誤りがあれば再現性がありませんから、アプローチにミスがありますので間違いです。
例えば「集合知」というものがあります。牛の体重の平均を取る実験で、「素人の集団が憶測した牛の体重の平均が、玄人の憶測より正確に近かった」という実験結果があります。
推測をプロセスとする上では、指標として参考に出来ますが、推測をアンサーとするにはリスクを伴います。
つまりは、
「何を持って誤りとするか?」
が焦点となります。

RYU
終わり良ければすべて良し

マルコ・アモレッティ
非効率でも正しければ情緒が生まれる
誤った非効率は再現性のない博打と何が違うのか
としゆき

ささみ
誤った方法(想定以外の仮説)で得られた結果がなぜ正しいとわかるのでしょうか?
もちろん検証の内容によりますが、
私は方法の正しさではなく、
正しい結果は本当に正しいのか。
なぜ正しいと考えるのか。
その正しさの証明ができれば誤った方法が誤ってるのかどうかもわかるんじゃないかと思います。

サリンジャー

ジョン・ブル
結果が正しいなら、方法も正解では?
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