脳の一部分を自分の細胞で培養した新しい脳に交換した場合、それは自分なのか?
今後こういう手術も出きると思うんですよね。理性弱い攻撃性高い人に前頭葉交換したり、空間認識能力は低い人の頭頂葉をこうかんしてみたり。倫理的問題は国によって異なり、議論されると思いますが。知的障がい、発達障害、行動障害等々改善できはする。

ましら
人間的には、自分と認識しないとやってられない

愛善院

凪
元の形に沿っているのにも限界があるだろうし
日々入れ替わり更新し続ける肉体は
ほんとに自分なのかなんてわからない
髪の毛が抜けたりするのも
同じように感じる
kaede

サイダー
僕は、拒否反応などの技術的な制約が克服できれば、細胞の起源は問題にならないと思う。
むしろ、誰のものでもない細胞を、それとともに生活することで、自分の一部にしていくというプロセスが、アイデンティティにとっては大事だと思う。

ゲッチュー

冷泉院ラグドメゼギス
結論から言うと「本人と見なして良い別人」と考えます。
観点は二つ。
材質は交換前後で「自分の細胞」のままなので、構造体としては「自分」のままでしょう。
脳という器官を構成する部品を交換し、脳全体の活動が変わるとすれば「別人」と言えるでしょう。
もっとも、メンタルに異常をきたした人は脳に対する化学的な干渉で正常化を図りますが、異常から正常へ移行した後も、異常状態からすれば「別人」ではあるわけです。思考や判断、言動が変わるわけですからね。
脳の(それなりの割合で生まれつきの)器質的な異常の矯正も、最終的には同一分野の「治療」と考えていけるようになるのでは。あくまで「おれは異常なままでいい」という選択や意思表示と等価のものとして。
ゆずゆず
また別の視点だと、個体から切り離されて培養されている時点で、連続性の途切れが発生するので同一個体とは呼べないし、他者としての境界が生まれると思う。
なので、限りなく自分に近い別の生き物になるんじゃないかな??

なずむ

ミヤコリノ
で、結局どうなのかと言ったら「見た目は自分に似た他人」ですかね。。。
障害からの苦しみを救えても、「その人らしさが無くなってしまう」としたら、果たしてそれで良かったのか?と疑問に思うことはあるかも。
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