「無知の知」は「なんじ自身を知れ」に対する閃きの一解であり重要ではあるが「なんじ自身を知れ」のほうが、より哲学的発端はあるのではなかろうか?

永久に🐦

BEVEL
確かに![びっくり]

蘇我霊幻道師准尉
「無知の知」(これは知らない事を探す大切さを教えている。)
故にニュアンスが異なる。
ゆう(低浮上中)
汝自身を知れ→自己分析とは、無知な自分のみならず、知っている自分を知ることだと思いますので

サイゼの小エビ

ナトル
まずあなたの知識の限界を知れ(気づけ)が【無知の知】
その次のステップとして
この限られた能力で自分の知り得る才能や知識をどこまで成長させるか それを知ること(考え 研究すること)が【なんじ、自身を知れ】に繋がるんだと思います
一種の無用の用に近い 発想かもしれませんね
【無知の知】を地盤にしたからこそ【なんじ、自身を知れ】ま活かせるのだと思います。
いきなり【なんじ 自身の知れ】と言われても混乱するか勘違いして暴走するか のどちらかになる可能性が高いからその下準備として【無知の知】もつなげる必要だと思います

愛善院
知に対する敬虔と謙虚さを求めるスローガンのようなものと見なすこともできる。

ケン

ジョン・ブル
何を知らなかったとて、自身を知ったとて、何も変わらない。

マルコ・アモレッティ
それがどちらに該当するかは観測者に委ねることにするが、「無知の知」は好奇心の出発点であり、「なんじ自身を知れ」は目的への手段と方向性の検討という言葉に噛み砕けるのではなかろうか
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