哲学史や諸学に一切触れず哲学をする人をどう思いますか?そもそもその考えただけのものに哲学と呼ぶ必要があるのですか?

洞

翔

こうしん🀄️🀄️🀄️
何も知らないまま、全てを気づいて行き着いたとしたなら、最も真に近い哲学者なんじゃないかな

タイリー

若
「考える学問だ」
と答えられて、なるほど。と思いました。
今もそれは変わりません。
なので、哲学史や諸学(この場合、形而上学や倫理学)に触れずとも、哲学はできるのだと思います。
そして自身の中でそれをより深めるために、歴史や各学問が存在するだけで、必ずしも必要というワケではないのだと思います。
それは『禅問答』と同じ様な、その時その時の答えに巡り合うためのもの。
『学問』と捉えると、確かに素人が語るにはおこがましいと感じるかもしれませんが、ボクは哲学の本質とは『考えること』にあると思うので
「あ、そうか‼️」
というヒラメキや、ある種の『悟り』を得ることが目的であり、形態化した学問そのものは、それらのヒラメキや悟りを得るための道程でしか無いのだと思います。

ノゾ
時折考えを投げかけてくるけど、「それはな…」と返す答えがすでに、父たる僕の知る過去の中にある。
それは千年二千年の淘汰を生き延びたモノだけあって、息子もナルホドと唸ることになる。
哲学に興味なくともある程度教養のある人なら、わざわざ哲学と銘打たれた学問や書物に触れずとも、その習慣の中にエッセンスが受け継がれていて、そういった人との対話だけでも、過去の哲学者の思索を受け取っていることになる。
思索し、父とのキャッチボールを通じて過去を受け取り、また思索する息子のそうした日々を「哲学的」と呼ぶことはできそう。
だけども、しかしそんな程度のものを「哲学」と言い切るのはいかにも大仰で、好事家風情が専門家を差し置いてその呼称を騙るのもなんだか痛々しくもある。
さしあたりの僕の考えは。
ちょっと込み入ったことを言えば野球選手が「投げる哲学者」なんて呼ばれたりもするように、哲学なんてその程度の気楽さで捉えてもいいと思うけど、ちゃんと過去の思索を参照・検討している人や、その道の専門家との違いは意識し、謙虚になるほうがいいんじゃないかな。
といったところ。
設問の「一切触れず」の前提から離れてしまったけれど、たぶんそれは成立し得ないように思えて。

たけし

風の音

リフル
個人的には、ただ哲学するにあたっても、哲学史を学んでおけば見える世界も広がるので学んでおいて損はないでしょう。

バード
→ようこそ哲学へ。
かんがえただけのものに哲学と呼ぶ必要があるのか
→ある。むしろ哲学史や諸学から借りてきた言葉で表現する事は、哲学の基本理念から外れていると私は思惟する。知識を披露するものではなく、自己探究の学門と私は認識。
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