哲学史や諸学に一切触れず哲学をする人をどう思いますか?そもそもその考えただけのものに哲学と呼ぶ必要があるのですか?

努力すき夫
Tatz

愛善院
別にどのように呼んだところで「その人が」必要だと思えばそれだけのことではないかね。
相対する哲学的対話をする者が「それは哲学ではない、哲学的ではない」とするのは、どちらかといえば「利便性の解」で考えたほうが早い。
共通認識として「哲学」というものは【ここからここまで】だから、あなたのやっているものは哲学と呼ぶことでノイズだ、ということはままある。
ノイズだから必要ではない、というわけではないからな。

愛善院
数学で
公式を知っていたから早く完璧に解けたぜ、という努力と、公式は知らなかったけどこういう法則がありそうだから自分なりに解けたぜ、という工夫、私はどっちも好ましく思うのだよねぇ。
マニュアルに従わなければならない命にかかわる現場とかだと発想力だけで勝負していたら危なくてしかたないのだけれども。

丁寧

ニョッキNo.Ⅱ

若
「考える学問だ」
と答えられて、なるほど。と思いました。
今もそれは変わりません。
なので、哲学史や諸学(この場合、形而上学や倫理学)に触れずとも、哲学はできるのだと思います。
そして自身の中でそれをより深めるために、歴史や各学問が存在するだけで、必ずしも必要というワケではないのだと思います。
それは『禅問答』と同じ様な、その時その時の答えに巡り合うためのもの。
『学問』と捉えると、確かに素人が語るにはおこがましいと感じるかもしれませんが、ボクは哲学の本質とは『考えること』にあると思うので
「あ、そうか‼️」
というヒラメキや、ある種の『悟り』を得ることが目的であり、形態化した学問そのものは、それらのヒラメキや悟りを得るための道程でしか無いのだと思います。

J
柴犬
しかしそれが無意味だとは全然思いませんし、むしろ哲学の源泉だと思います。

メリー
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