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哲学史や諸学に一切触れず哲学をする人をどう思いますか?そもそもその考えただけのものに哲学と呼ぶ必要があるのですか?

愛善院

愛善院

「必要性の解」で求めようとする、ということかね。
別にどのように呼んだところで「その人が」必要だと思えばそれだけのことではないかね。

相対する哲学的対話をする者が「それは哲学ではない、哲学的ではない」とするのは、どちらかといえば「利便性の解」で考えたほうが早い。
共通認識として「哲学」というものは【ここからここまで】だから、あなたのやっているものは哲学と呼ぶことでノイズだ、ということはままある。

ノイズだから必要ではない、というわけではないからな。
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くりねずみ

くりねずみ

「個人的な探求としての哲学」と「学問としての哲学」を分けて考えたほうが良いと思います。それらは「文学作品」と「学問としての文学」が違うのと同じくらい異なっています。

タレースやピタゴラスなどのアルケーを探求した哲学者、あるいはソクラテスやプラトンが学んだ哲学の量は、おそらく現代の哲学者が学んだ量の半分どころか一割にも満たないでしょう(タレースに至ってはそもそも先駆者がいません)。ですが彼らを指して「哲学者ではない」と言う人はおそらくいないのではないでしょうか。そう考えると、「哲学史や諸学に一切触れずに哲学する人をどう思いますか?」という質問に対しては「少しもおかしいところはない」と言えると思います。

二つ目の質問については、意味を捉えかねているのですが「そもそも頭の中だけで考えたものを学問と呼んでもいいのか?」という意味だと解釈してお答えします。

これについては明確にイエスと言えるでしょう。「学問としての哲学」に限った話ですが。

同じように頭の中だけで展開される学問に数学があります。数学は哲学と同様、実験や観察が不要な学問です。たとえば1+1が2であることを証明するとき、私たちはリンゴを1つ持ってきて、さらにもう1つ持ってきて「ほら、2個になった」と言う必要はありません。数学は公理と定義に基づいた、純粋な論理と思考の積み重ねによって成り立っているからです。その点については論理学も同様でしょう。

ただし、学問として成立する重要な要素の1つに客観性が挙げられます。「私だけがそう思う」ではダメなのです。その思考のプロセスや結論が、他者にも理解・共有され、検証可能である必要があります。その点で考えると、「個人的な探求としての哲学」は学問と言うには不十分であると言えるでしょう。
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るう

るう

そもそもの言葉や文字がどう発展して、志向や観察の結果次の課題を見つけて行く行動出来ない思考だったと思う。その後積み重ねられて口伝や文字も進歩して、ある問題についてはこうで、この問題についてはこうだと文章とされて発展して固まらない学問ですよね。なので思考の内にあるだけの場合はあまり進歩的でなく思考の外へ出していく作業を伴う行動的な学問とされるのだと考えます。学問や諸学にいっさい触れずにいられる人間の存在は無いと考えていますが。
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愛善院

愛善院

既に答えたけど、ふと思いなおすに

数学で

公式を知っていたから早く完璧に解けたぜ、という努力と、公式は知らなかったけどこういう法則がありそうだから自分なりに解けたぜ、という工夫、私はどっちも好ましく思うのだよねぇ。


マニュアルに従わなければならない命にかかわる現場とかだと発想力だけで勝負していたら危なくてしかたないのだけれども。
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J

J

経済学にマクロとミクロがあるように、それぞれ個の人生観でしっかり構築された哲学があってもよいと思います。
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メリー

メリー

言葉や知識で着色されてない子供の方がよっぽど物を知ってるよ
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Tatz

Tatz

あなたが何か例えばこだわりを持ったとして、そのこだわりを持つ理由があり それが信念と呼べるものになるのならそれは立派なあなたの哲学です。
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ナトル

ナトル

多分ないと思う …………

イメージで言えば 新しいアイディアを作るために何の資料もう調べずにアイディアを出すようなもので そういうのは完成した直後に前の古いアイディアと被っていたり 本末転倒 だったりしてものにならないことが多いのと同じで

哲学に触れないと その道理の不偏的な部分、共通する部分、結論が出てる部分を理解することができないため やはり 役に立たないものになると思う

私はよく 中国思想のお話の本を読んだりしますが 孔子や荘子や老子とかも必ずて言っていいくらい過去のデータや歴史を例え話に出したりしてこういう考えがあるんだけどあなたはどう思いますか みたいな流れで 哲学を完成していたんだと思うからです
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藤

独りよがりは学びの姿勢ではないと思います。ただ、そういう時期もあって良いのではないかなとも思います。自分が考えるということの小ささに耐えられないうちは、自身の考えたことが「哲学」である必要があるのかもしれません。特別でありたい気持ちが、「哲学」を必要とするのかなと。
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ヤカ

ヤカ

例えばある国の荒野に羊飼いがいる。彼は学校を出ていないし無学であるが、何年も星の動きを観察し羊の心を感じ、彼の世界の感覚で人生をより良く生きるように日々考えて心を砕いている。
人生をより良く生きるために考える営みを哲学と呼ぶならば、彼は哲学をしていると思うのですが、どうでしょうか?

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