難しい言葉を使わずに哲学はできますか?

たくひら
私はこの「難しい」は3つの解釈が出来ると思います。
ひとつ目が「難しいことを考える」という難しさ。私はこれを深化とか「思考に深く潜る」と表現しています。「難しい」という表現はこういう意味なんじゃないか?と今考えていますが、まさにこれが「難しいことを考えているな」という感覚を生み出すと思います。
ふたつ目が「言葉を正しく理解させる」ということ。言葉には他者性がありかつ他人はその言葉を自由に解釈できる。だからなんとなくその言葉や書かれていることの文意を理解できた気になります。しかし、哲学ではそれは困るんです。何故なら「誤解されてしまうと哲学として失敗だから」です。なので、できる限り「限られた解釈」しか許されない言説が出てくる。これは人によっては「解釈不能」や「なんでこのように理解すべきかわからない」という「難しさ」につながります。
3つ目が「新しい言葉を生み出す」からです。哲学をやって色んなことを考えていくと、どうにも今ある言語帯の中でカチッとハマらない言葉や、「この言葉は私はこういう風に使いたい。そうするとうまく説明できる」というものがあります。例えばハイデガーのSEINや「大文字の他者」のような言い方はまさに言葉の発明ですね。或いはアーレントの「物語」とリクールの「物語」と後期ヴィトゲンシュタインの「物語」は全部含意しているものが違います。なので、もしリクールののいう「物語」を使いたければ「リクールのいうところの物語」と正確に使わなければなりません。これはつまり日本語の中に突然見たことのない横文字が出てくるのと一緒なので「難しい」と感じるのは当たり前だと思います。
難しいという言葉から哲学的思索を、できる限り平易な言葉で説明してみましたがいかがですか?やっぱり難しいですかね??(´・ω・)

シズ
「一生懸命生きているのに、人生には答えが返ってこない。それでも生きるとはどういうことか?」という問いとして考えられます。
カントの倫理も、「誰かに見られていなくても、それをしていいのか?」と考えてみれば、かなり身近になります。
そして仏教の「空」だって、
「自分というものは、本当に一人で成り立っているのだろうか?」と考えるところから入れます。
ですから、難しい哲学用語を覚えてから哲学を始める必要はないと思います。
疑問 → 自分なりに考える → 「でも、本当にそうなのか?」ともう一度考えるこの繰り返しそのものが哲学です。そして面白いのは、かなり深く考えていくと、あとから「これはカントが考えていたことに近い」「これはハイデガーの問いとつながる」と分かってくることです。
先に難しい言葉を覚えるのではなく、自分の言葉で考えてから哲学者の言葉に出会う。
この順番のほうが、哲学はずっと面白くなると思います。

コパ🔍

ピロー

ニギニギモキタ

Yan

たつ
としゆき
例えば、精神科医 ジャックラカンの生み出した用語やそれに連なる概念は少し前の現代思想と呼ばれる分野を読み解く上では、
意味の理解するという側面でも、またその言葉を実際に使用してラカンの概念を応用して語られる何かの主張を吟味し考察する上ではその言葉の「使用」は避けられないという事実があるからです
もちろんこうした著名な人物の生み出した数々の言葉や概念を使わずに「哲学」することは十分可能であるしそれが間違った「哲学」であるとは言いません
しかし、難しい言葉を使わない「哲学」はどうしても自分の身の周りの状況に対する強い関心事の「哲学」が非常に多く、やはりそれらはそうした問題以上の問題にはなり得ない、語ることの領域の限られた"自己満足の哲学"に陥いる危険性が非常に強い。
ある恋愛に関する話し合いが男女の関係の話しに発展してそこからジェンダーやLGBTQといった専門の哲学分野の議論に入った時、精神分析学や社会思想の知識がなければ必ずどこかで立ち止まってしまう。
だから、自分の考えをよき絶対のものとせず他の意見を持つ人達と議論し肯定否定を経て新しい考えをもつに至るそういう過程も「哲学」の本質であると思うので、先人の残した思想が一語に凝縮された"難しい言葉"を使わずとも「哲学」ができると言う考えにはあまり納得できないと感じますね

なぎ
後は邦訳された哲学書が異常に難しいという側面もあるらしく、海外では日本ほど難しい言葉を使わずとも哲学が出来ているみたいです。

余り者
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