難しい言葉を使わずに哲学はできますか?

ピロー

モキタモキオ

Yan

たつ
としゆき
例えば、精神科医 ジャックラカンの生み出した用語やそれに連なる概念は少し前の現代思想と呼ばれる分野を読み解く上では、
意味の理解するという側面でも、またその言葉を実際に使用してラカンの概念を応用して語られる何かの主張を吟味し考察する上ではその言葉の「使用」は避けられないという事実があるからです
もちろんこうした著名な人物の生み出した数々の言葉や概念を使わずに「哲学」することは十分可能であるしそれが間違った「哲学」であるとは言いません
しかし、難しい言葉を使わない「哲学」はどうしても自分の身の周りの状況に対する強い関心事の「哲学」が非常に多く、やはりそれらはそうした問題以上の問題にはなり得ない、語ることの領域の限られた"自己満足の哲学"に陥いる危険性が非常に強い。
ある恋愛に関する話し合いが男女の関係の話しに発展してそこからジェンダーやLGBTQといった専門の哲学分野の議論に入った時、精神分析学や社会思想の知識がなければ必ずどこかで立ち止まってしまう。
だから、自分の考えをよき絶対のものとせず他の意見を持つ人達と議論し肯定否定を経て新しい考えをもつに至るそういう過程も「哲学」の本質であると思うので、先人の残した思想が一語に凝縮された"難しい言葉"を使わずとも「哲学」ができると言う考えにはあまり納得できないと感じますね

なぎ
後は邦訳された哲学書が異常に難しいという側面もあるらしく、海外では日本ほど難しい言葉を使わずとも哲学が出来ているみたいです。

余り者

メリー
子供のなんで?はそこに答えがあるかもしれない。
シン
学問上の専門用語、例えば「私」や「自己」、「自我」、「自己意識」は同じような言葉に見えて、その意味や言葉が用いられ積み重ねられてきた知、背景がそれぞれ異なる。
その積み重ねられてきた知や背景、文脈を無視して「簡単な言葉に言い換えればよいのだ!」という単純化はできない。
難しい言葉を使った方が、より厳密な思考や議論が可能になるのだ[穏やか]

てす人
深く考えようとしたら難しい言葉の方がその語が指す範囲が狭く解釈の解像度が高くなるため必要になる。
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