難しい言葉を使わずに哲学はできますか?

愛善院
難しい言葉を「理解する」ことに価値はあるものの、難しい言葉を他者に投げることによって、相手を出し抜こうとしたりケムに撒こうとしたり、端的には「人格のゆくすえを対象とせずに」哲学的な対話をすることは、ラットレースでしかありますまい。
誰にでもわかるように、できることなら思考で遊べるように、知性を愉しんでこそ純粋学問として、人間の本能に叶うものであると思うのです。
シン
学問上の専門用語、例えば「私」や「自己」、「自我」、「自己意識」は同じような言葉に見えて、その意味や言葉が用いられ積み重ねられてきた知、背景がそれぞれ異なる。
その積み重ねられてきた知や背景、文脈を無視して「簡単な言葉に言い換えればよいのだ!」という単純化はできない。
難しい言葉を使った方が、より厳密な思考や議論が可能になるのだ[穏やか]

なぎ
後は邦訳された哲学書が異常に難しいという側面もあるらしく、海外では日本ほど難しい言葉を使わずとも哲学が出来ているみたいです。

くちく
ただ、難解な言葉を用いた哲学を蔑ろにはできません。
もちろん、皆さんのおっしゃる通り、哲学はあらゆる人・社会にひらかれているべきです。
哲学者の永井玲衣さんも『水中の哲学者たち』という本のなかで、難解な言葉で哲学することを「綺麗な花火を遠くから見ているよう」だ、とします。永井さんも、難解な哲学の魅力を認めるものの、対話のなかで身近な喪失や気づき等を掬い取りたい、としています。
それでも、哲学は積み重ねの学問なのです。デリダがフッサールを徹底的に解読して、哲学を進めたように、哲学は歴史の縦糸によっても紡がれていきます。
また、難解な言い回しと言われることの多い、詩的言語のアイロニカルでアナロジカルな実践の中で、世界の認識はずらされ、動き、絶えず思考/試行されるなかで深まりをみせます。
だから、市井の〈哲学〉が横糸ならば、学問としての〈哲学〉は縦糸なのであって、後者の深まりがなくてはならない、と確信しています。

YZF R-1使い

伯爵
答えを人に聞いて回るだけなら「雑学」。
言葉は所詮ツールで「他者に適切に思考を伝える手段」です。難しい言葉は必要ありませんが、他者に思考を伝える手段はあった方が建設的です。
puspisrow
智を愛する哲学はアカデミックなものに限定されないはずです。

🇯🇵にこ
わかりやすい例え話をすると学習効率が下がるジレンマを抱えているから、、、この問題ほんとに難しい、、、、

おが
他人を知り、自分を知ることが哲学であるなら、子どもにだって哲学を考えられることができると思いますよ。

てす人
深く考えようとしたら難しい言葉の方がその語が指す範囲が狭く解釈の解像度が高くなるため必要になる。
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