全ての人と分かり合うことは可能か?その場合、どうすれば良いのか?orそれは不可能か?その場合、なぜか?
ここでいう「全ての人」は、何かしら「自分」と関わりのある人物全員のことです。生涯知ることも会うことも話すこともないような人は含みません。

きゆう

シフ
その上で可能にする方法は、独裁政治で全員に同じ思考をさせることだけかな。
他者を知らなくとも『全員が同じ思考』なら『知らなくても価値観は同じで理解し合える』

パン

風の音
たぶん不可能。
俺は同じ質問に対し同じ答えを返す自信がないです。
また、自分自身のことを理解しているとも言いきることができません(理解してればもっとうまく世の中を立ち回れると思う…)
相互理解が可能なら、人類が生まれてから今日までの間に「3分に一組が離婚している」状態にはならないと思う[疑っている]

🍊🍊🍊

もちゃ
どちらか一方に責任や負担が偏り続ける関係は、表面上は成立しているように見えても、内部では歪みが蓄積していきます。
たとえば、こちらが状況を理解しようと努め、背景や意図を読み取り、「これはこういうことなんだよ」と説明を重ねたとしても、相手が「はいはい、わかった」と応じるだけで、本質的な理解や歩み寄りを示さない場合、そのやり取りは次第に対話としての機能を失っていきます。
そこには確認や共有の形だけが残り、意味の交換が希薄になります。
ここでいう理解とは、単なる情報の把握ではなく、少なくとも認識の更新可能性を含む理解を指しています。
理解は、言葉を受け取ることに加えて、解釈や前提を調整しようとする姿勢を伴うものだと私は捉えています。
その姿勢が片側にしか存在しない関係では、時間の経過とともに調整機能が働きにくくなり、やがて全体の均衡が崩れます。
関係が崩壊する原因は、感情の爆発や単発的な衝突というより、こうした小さな非対称の累積として現れることが多い。
「理解する」という語の定義を
①「相手を分かる」=相手の考え・感情・立場を理解可能であること
②「分かってもらう」=自分の内面を理解してもらうこと
と区別して考えるなら、理論上は、これまで自分と関わりのあった人物全員を「理解する」こと自体は概念的には可能と言えるかもしれません。
ただし、日常語として用いられる「分かり合う」は、
相互性を前提とし、主観的な納得感や感情的な受容、安心感を含む語として使われることが多いように思われます。
この質問も、単なる「理解できる」より一段深い意味合いで使われていると解釈しました。
私は、
「理解できる」は主に認知レベル、
「分かり合う」は認知に加えて感情的受容と相互性を含む状態、
として区別しています。
「理解は姿勢次第で可能」という意見を見かけましたが、それは「関係として安定的に分かり合えるか」までは保証していないように思えました。
現実には、
理解は成立していても関係が崩壊する、
論理的には把握していても心理的には受け入れられない、
といった状態が生じます。

甘んじる

Noriko
なぜなら、育った環境も違えば考え方も違うから
でも完全に分かり合うことは難しくても、多少なら可能だと思います

のぼ
また『ありのまま』という捉え方もあります。
子供の時に良いも悪いもたくさん経験して、ありのままを知ってください。
ありのままに生き、相性を重視すれば
自身を責めず、他者も責めず
お互いに尊重し合えます。
もし誰も合う人がいない場合は
「本当に今の自分はありのまま?」
と問うてみてください。
必ず何かに巻き込まれていて自分を出せず、
その『何か』に人から避けられるような振る舞いを身につけさせられています。

サト
隣の人でさえ体調や気分で変わるし
だから会話するんだと思う
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