他者である時点で敬意はあってしかるべきものである。それは崇敬や尊敬などの対称に直接向く銛のようなベクトルではないものであるほうが望ましい。私はたまたま、尊敬する人の元に弟子入りさせてもらった経験がある。その経験からすれば尊敬という感情は、相手を自分の評価の枠組みに置いて理解しようとする浅ましい試みであり、ラベリング的なマウントに過ぎない部分がある。毎日説教をいただく、目の前に白いものがあっても黒といわれる、どれだけ考えても「それは答えではない」と言われる。なぜならば、どうにかしてそれを攻略しようとしてしまうからだ。他に徹底的に染められるのを目指すのではない。どうにかして自分の尊敬の感覚を変えて「私の口を塞ぐな」と言えるころになれば、偉人であろうが経緯を払うべき他者にすぎない。