デリダの脱構築を文学に落とし込むとロシアフォルマリズムの異化との相違はあるのでしょうか?

まつげ
『A↔︎Bで、大体それはA>B』
っていう価値観は間違ってるかもよ!
AだってBっぽいとこあるし。
だから、Bの方が偉いってことじゃなくてー
A≠Bだけど、A=B
っていう風に物事を見てみようよ!
★ロシアフォルマリズムの異化とは…
りんごはりんごじゃ、
普通で感動しないじゃん?
りんごは…赤・綺麗な形・すべすべ・甘い・シャキシャキ音がする・秋・木にたくさん実る・その木のある景色・ジャムにできる・アップルパイ・その思いを共有した思い出
という風に、色んな見方で表現することで、感動を作ろうぜ!
で合っていますか??笑
もしこれで合っているのならば、ロシアフォルマリズムの異化には、相反するものとどちらかへの優位性はないので、デリダの脱構築とはそもそもちょっと違う気がします。

くちく
一方で、〈脱構築(批評)〉は体系をずらす実践で、自明の解釈をずらすことを目的としている。ゆえに射程は社会体系や秩序、制度にわたり言語に限られるものではない。さらにいうと、〈脱構築〉は形式に内在する意味の安定性(コスモス)に意義申し立てをする思想です。
そのため、ロシア・フォルマリズムのかがげる形式主義的な思想は、むしろコスモスを得ようと言語の体系を構築していく運動なので、デリダからすれば〈異化〉も脱構築の対象のはずです。

コピ

マルコ・アモレッティ
全体像を把握してないのに?
随分とみみっちいことするね

愛善院
日本人はもともと脱構築はスペック搭載されています。「辛い」と書かれたときに、単体だと感情形容詞か様態(味覚尺度)形容詞か判断できません。
「昨日、辛いことがあってさ」とやれば、意味は「ツラい」のほうだな、と分かるわけで。
つまり、日本人はこれを感覚でやるので、改めて明晰に理解しようとすると意外に難しいのかもしれません。でも、すぐ思いつきますよね「苦」なんてのも、送り仮名の「し」のあるなしだけではなく、文脈依存していたりします。
このように、いま「辛」「苦」にあえて着目させましたが、日常にありふれているものにもう一度たしかに着目しなおしてみたら、というのがフォルマリズム異化です。

愛善院
脱構築の場合は言語哲学というミクロ視点に近く、フォルマリズム異化は文学的解釈というマクロ視点に近いです。
どちらも「ピントをぼかしても訴えかけてくるもの」を重視している、といえば似ているといえます。

