場面がわからないけど、逃げだと思うしエゴだと思う。自分が傷つけば、自分が嫌な役回りをすればって結局人から非難されたくないだけのケースが多いし、言ってしまえば残酷な作戦しか実行出来ないなら、最後まで、自分で見届けるべきだと思う。酷い言い方かもしれないけど、やってる人優しい人なのわかってるし可哀想だから…肯定しちゃいけない気がするから…
「哲学のグループチャット」があるんだが、再三にわたりルールを定めるべきだと私は主張してきた。そして、その節、管理者は「議論で勝敗を決める」と言ったわけだ(そもそも哲学に「勝敗」を持ち込んだ時点でルールとしておかしいわけだが)。ゆえに、私は持てる限りの議論を尽くして、ありとあらゆる質問に答えたわけだ。結果はどうなったか。私はおそらく勝ったな。そして「意義のない議論」として、管理者は「グループチャット」を解散した。つまり、ルールを反故にしたわけだ。現在、新たなグループチャットが発足したが、そこには議論の素人が考える新設の「ルール」が置かれている。結果的に、私はそのグループチャットに入れなくされているが「ルールを作るべきだ」という主張は、このようにして通ったわけだ。構造的にものごとを組み立てるための駒としてであれば、私はあらゆる敵役をやれる。ヴィランでなければ物事を進展させられないことは確かに存在していることを私は知っている。