んー、どっちから攻めようか。仏説がわからでも記号論がわからでも行けそうだが……。質問文の「私たち」を「言葉(記号)を操る人間」と定義すると、私たちは「客観的な事実」を【言語フィルターを通して】認識するといえます。めの前に木があり「これは水でも星でもなく『木である』」と認定するのは、事実の弁別、すなわち言語的ラベリングが必要となりそうです。完全客体はそこにあるはずですが「私たち」は本能よりも簡便なラベリングを使用します。一本の瓶があるとき、そのラベルにブドウが描かれていれば「飲み物」とし、ラベルにドクロが描かれれば「毒」とする。本能としてブドウの匂いだ、毒の味だ、という感覚による認識よりも、ラベリングしたものを認識の材料とします。また、本能に直結している感覚を通したもの(いまの例だと匂いや味)は、主観的判断であり、客観的事実によるものではないともいえます。ゆえに、私たち「言葉(記号)を操る人間」は、事実を【直接には】認識できていない、といえます。どこまでいっても脳のバグが多いので、注目したいところにしか目がいかなかったりするものの、統合的に脳のなかで組み合わせたりして認識している、とは言えましょう。