おすすめの歴史人物とその魅力を教えてください♪
pluton
共通点は、3者ともに下剋上をくらって極貧の少年時代 乞食若殿なんて悪口も囁かれ
元就の他は祖父に養育されて、悪逆無道とあだ名される謀略に最小限の流血で済ませて
刃向かう者には容赦しない。
カエサルの再来とまで宣教師に云わしめた隆信
長州の礎となった元就。宇喜田の家は残らなかったが花房職秀に明石掃部全登など名物家臣多数
物語のネタの宝庫かと

曇り空 (2期)
武田 物外(たけだ もつがい)
寛政7(1795)年3月~慶応3(1867)年11月25日。
曹洞宗の僧侶。
またの名を
「拳骨和尚」。
日本の宗教史、否。世界の宗教史の中で、これ程までに武闘派な僧侶は類例が有るでしょうか?
不遷流柔術の開祖、別号は泥仏庵。
幼少期から怪力の持ち主として知られていて数々の逸話が残されています。
晩年は長州の勤王志士たちと交流。俳諧も良くしました。
伊予松山藩士の息子として生まれました。
いくつもいくつもガチな武勇伝やら逸話やらが有りますが特に有名なものを2つ書きます。
江戸のとある古道具屋さんで碁盤を買う話になった際に持ち合わせがなく取り置きを依頼した際、店主から手付け(取り置きのお金)を催促されました。
その折に
「あぁ、そうか。では」
と碁盤の裏側を拳で殴ったんです。
拳骨の跡が、くっきり付きました。
なお、こうして手付けとして碁盤の裏側を殴った
碁盤は複数存在したそうです。
もう1つ。
京の町を托鉢してた物外和尚。新選組の道場を覗いていたところ隊士がからかい半分で強引に道場に連れ込みました。が、物外は手にした如意で隊士たちを次々に叩いて倒してしまいました。
「やめろ、やめろ。君たちの手に負える坊様じゃない」
見ていた局長・近藤勇が出てきました。
近藤勇は名乗り、竹刀での立ち合いを望みましたが物外和尚
「坊主に竹刀は似合わんでな。如意が嫌なら、この椀でお相手つかまつろう」
ずだ袋から托鉢用の木椀を二つ取り出しました。むっ。とした近藤勇、ならばと槍を取りました。物外は右腕を正眼に突き出し、左腕は斜めに振り上げました。指先で一つずつ、木椀の糸底をつまんでいます。
「さあ、どこからでも突いておいで」
いくら酔狂な坊主とて抜き身の槍を見れば震え上がるだろうと思っていた近藤の眼尻は怒りに燃え
「ええ、口幅ったいやつだ」
大喝とともに槍をくり出した近藤勇。
ところが物外和尚、ひょいと身をかわし突き出された槍のけら首を木椀で挟み込んだのです。
近藤が引こうが、突こうが、動きません。
満身の力を込めて引っぱった処を機を見て物外が木椀を外した処、近藤は自分の力で二、三間も後ろへ飛ばされ、道場の床板に尻餅をついたそうです。。。
物外和尚、60代後半か70歳辺りの話です。。。

みょん
他に好きな人物は武田信玄&勝頼の親子、森可成、東郷平八郎、乃木希典、大久保利通ですかね。

曇り空 (2期)
川喜田 半泥子(かわきた はんでいし)。
1878(明治11)年~1963(昭和38)年。
実業家としての前半生、趣味人(特に陶芸)としての後半生が有ります。
三重県津市の人。
津藩・藤堂家と並び称される大金持ちの長男として生まれるも祖父並びに父をすぐに亡くし、まだ10代で未亡人となった母をそのまま居させるのは不憫だから。と実家へ帰され、祖母の政によって育てられました。
祖母と翻意にしていた僧侶・大徹禅師の元で心の在り方等を修練する等をし、それが人格形成を善きものにして実業家として大成した原動力となった、とのことです。
百五銀行の第6代頭取として昭和戦前期の不況による大インフレ、取り付け騒ぎも奇想のアイディアで乗り越える等、天才振りを発揮しました。
50代半ばで隠居してから本格的に趣味に打ち込み、特に陶芸の世界では
「東に魯山人あり。西に半泥子あり。」
「昭和の光悦」
「近代陶芸の父」と呼ばれる等しました。
また後に人間国宝となる荒川豊蔵、金重陶陽と
「からひね会」を組み、親交を深めつつパトロンとなったり。
地元民がグローバルな視点に立って欲しいという願いから地元の津市の街を整備させ、東京・青山の洋食店「東洋軒」の支店を作らせ、初代料理長に提案して名物の「ブラックカレー」を完成させたり等。
なお最近ではライフスタイルブランド「HUMAN MADE」創業・運営を始め様々な活躍をされ最近ではKENZOのアーティスティック・ディレクターをされているNIGOさんが熱心なコレクターとして知られています。
陶芸作品のみならず掛け軸とかも、とてもユニークですよ。
是非とも調べてみて下さいね。
画像は、半泥子さん。。。の作品だろう。って感じの私のコレクションの一部です。
抹茶碗と、ぐい呑みです



藤堂誠
日本いやっアジア人で初めてオリンピックにマラソンで出場した人物であの正月の風物詩にもなっている箱根駅伝を発案し作った人です。ちなみにマラソンを日本全国に広めたのも金栗四三先生です!!

曇り空 (2期)
鳥居 強右衛門(とりい すねえもん)。
低い身分である1人の足軽の身で在りながら、戦国の世の中に於いてこれ程までに武士としての本懐を遂げた者は居ないのでは?と思う程のお人です。
長篠の合戦での最重要人物と呼べるでしょう。
もしご存知無い方は、是非ともお調べを

曇り空 (2期)
まずは。
大田垣 蓮月(おおたがき れんげつ)尼。
大政奉還の重要人物の1人である事は、相当に知られていない。
若き頃は絶世の美女だった。
が、特に未亡人となってから余りにも沢山の男性から言い寄られるのを苦にして全部の歯を抜いたり等、波瀾そのものの人生。
若き頃の富岡鉄斎を侍童とし、価値観等の人格の形成に大きな影響を与えた事も知られている。
蓮月焼と呼ぶ手づくりの茶器、とても美しいので是非とも見てみて下さい

よし
人生輝いてました[照れる]とっても頭が良い所。
のしがもす
鎌倉時代末期〜南北朝時代の南朝の公卿で武将。父は、『神皇正統記』を著した北畠親房である。
3歳で叙爵され、13歳のときに後醍醐天皇の御前で『陵王』を舞い、天皇も笛を吹かれたという逸話がある。(増鏡、舞御覧記)
増鏡曰く、『夕づく日のかげ花の木の間にうつろひて。えならぬ夕ばへ心にくきに。陵王のかがやき出たるけしきいとおもしろく。かたりつたふるばかりにて。』
舞御覧記曰く、『この陵王の宰相中将君は。この比世におしみきてえ給ふ入道大納言(親房)の御子ぞかし。形もいたいけしてけなりげに見え給に。此道にさへ達し給へる。ありがたき事也。』
※訳省略。
はわわ…輝いている✨
最年少14歳で参議となり、建武の新政では、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国に下向した。
武田信玄でお馴染みの風林火山の旗…孫子四如の旗を最初に用いたのは彼だと言われており、下向に際し、天皇が旗の銘をお書きになったとか。
このことは、神皇正統記にも書かれている。
さらに、彼を伝説たらしめているのは、二度にわたる奥州から京への爆速遠征である。秀吉の中国大返しを遥かに越える日本屈指の強行軍で、その速度は一日平均40kmと史上断トツの日本記録である。一度目の西上では、足利尊氏を最も追い詰めた。
任地に戻り、19歳、二度目の西上前には、文化財の保護にも力を入れ、いわゆる'中尊寺供養願文'を謄写している。(国指定重要文化財)
尊氏が再挙したため、二度目の西上をする。
彼は、死の7日前に後醍醐天皇に決死の諫奏文を上奏している。醍醐寺でたまたま写しが見つかり、巻頭以外は内容を知ることができる。
そして…享年21歳(満20歳)で石津で戦死する。
その彼の名は、北畠顕家。
この生まれてから死ぬまでの短いながらも魅力的な人生…!もうパーフェクトすぎて…
もっと生きてもっともっと活躍して欲しかった…
画像は私の過去絵。
逃げ若のキラッキラッの顕家卿がまた良い!!
#のしがもすのらくがき #逃げ若
#あきーえとかあびい ←私の二次創作タグ。漫画と小説。解説では、顕家卿について語りまくっていますww


ラッキー
で〜ら頑張ったんだでさ〜
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