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のしがもす
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鎌倉時代末期〜南北朝時代の南朝の公卿で武将。父は、『神皇正統記』を著した北畠親房である。
3歳で叙爵され、13歳のときに後醍醐天皇の御前で『陵王』を舞い、天皇も笛を吹かれたという逸話がある。(増鏡、舞御覧記)
増鏡曰く、『夕づく日のかげ花の木の間にうつろひて。えならぬ夕ばへ心にくきに。陵王のかがやき出たるけしきいとおもしろく。かたりつたふるばかりにて。』
舞御覧記曰く、『この陵王の宰相中将君は。この比世におしみきてえ給ふ入道大納言(親房)の御子ぞかし。形もいたいけしてけなりげに見え給に。此道にさへ達し給へる。ありがたき事也。』
※訳省略。
はわわ…輝いている✨
最年少14歳で参議となり、建武の新政では、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国に下向した。
武田信玄でお馴染みの風林火山の旗…孫子四如の旗を最初に用いたのは彼だと言われており、下向に際し、天皇が旗の銘をお書きになったとか。
このことは、神皇正統記にも書かれている。
さらに、彼を伝説たらしめているのは、二度にわたる奥州から京への爆速遠征である。秀吉の中国大返しを遥かに越える日本屈指の強行軍で、その速度は一日平均40kmと史上断トツの日本記録である。一度目の西上では、足利尊氏を最も追い詰めた。
任地に戻り、19歳、二度目の西上前には、文化財の保護にも力を入れ、いわゆる'中尊寺供養願文'を謄写している。(国指定重要文化財)
尊氏が再挙したため、二度目の西上をする。
彼は、死の7日前に後醍醐天皇に決死の諫奏文を上奏している。醍醐寺でたまたま写しが見つかり、巻頭以外は内容を知ることができる。
そして…享年21歳(満20歳)で石津で戦死する。
その彼の名は、北畠顕家。
この生まれてから死ぬまでの短いながらも魅力的な人生…!もうパーフェクトすぎて…
もっと生きてもっともっと活躍して欲しかった…
画像は私の過去絵。
逃げ若のキラッキラッの顕家卿がまた良い!!
#のしがもすのらくがき #逃げ若
#あきーえとかあびい ←私の二次創作タグ。漫画と小説。解説では、顕家卿について語りまくっていますww

コメント
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おみ
文字の成り立ちを見せられてる……!?

サト

まゆ


りく


ゆみ


ちさ♡
少し早い御挨拶ではありますが、
ちさゎ年末年始ガッツリハードな仕事メニューなので御挨拶が出来ない為、今日御挨拶をと。
今年最後のスポクラに行きました!
ちさはデブではありませんが…
大のデブと体だらしない人が大の嫌いです。
体のだらしない人は自分の甘さと欲求のかたまりでドン引きdesu…
2時間ガッツリジムでマシンをひたすら
お肌の調子と疲れにくくなった肉体。
体重も落ちてるから
今日ゎご褒美にblueberry muffinナウ
皆様が良いお年と御活躍出来ますように心から祈っております!
良いお年を!



Moshi Moshi (feat. 百足)
ピンク大好きです♂︎









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のしがもす 投稿者
間違えた!古文、両方とも舞御覧記からでした[泣き笑い] 訳『夕日の陰が桜の木の間にうつろっていく。その映える様はなんとも言えないほど素晴らしい。そこに陵王の舞人が輝くように姿を現す様は、大変趣が深く、語り伝えたいほどである。』 訳『この陵王を舞った宰相中将(北畠顕家)は、この頃、出家を惜しまれている入道大納言(北畠親房)のご子息である。姿は幼くてかわいらしいながらも、態度がしっかりしているように見受けられ、舞の腕前も高い域に達している。めったに無いことである。』
ゆかり
北畠顕家、本当にカッコいいですよね[大笑い] 史実も逃げ若も大好きです!