狂気を言葉で表してください。ずどぉぉぉぉん!!
まずは質問ではなくお願いであることをお許しください。狂気というのは一般的に行き過ぎた思考のことを指すと思います。それは桃色ネズミの左毒電波にさらされた人が陥る一種の63であり、同時に黄金作家バスのハサミです。

komichi
美に組み込まれた醜に触発されて、自分の愚かな感情が裏から表に切り替わって、醜に組み込まれた美を見出したくなる


あお🫧
だがその定義の多くは、“他者の視点”によって決められているものにすぎない。
では、もし「他者の物差し」から自由になったとき――
私たちは狂気と正気を、どうやって区別すればいいのだろう?
私にとっての狂気は、“静かな極限”だ。
それは叫びではなく、沈黙のかたちをしている。
誰にも理解されることを求めない、孤独の温度。
その存在感はときに、理性よりも真実に近い。
狂気は恐怖ではない。
それは、誰にも明かさなかった“本心”を、ただじっと見つめ続ける姿勢のこと。
むしろ私は、そこに美しさすら感じている。
何かを強く信じているとき、人は狂気に近づく。
とくにそれが、誰にも理解されないとわかっているとき。
それでもなお、自分の内側にしかない「正しさ」を手放せないとき、
私は狂気の端に立っているのかもしれない。
たとえば――
誰にも見せていない努力を、いつまでも続けてしまうとき。
「どうせ伝わらない」と思いながら、それでも言葉を綴ってしまうとき。
誰の声も届かない場所で、それでもまだ言葉を紡ごうとしてしまうとき。
そんなとき、
「私は今、誰の正気にも属していない」と思う。
でも、それは決して恐ろしいことじゃない。
むしろ私は、その場所に居る自分を、どこか誇らしく思っている。
人を傷つける狂気は、狂気ではない。
それは、ただの甘え。
お菓子をねだって、地面に寝転び、じたばたする子どものような、
愚かで稚拙な実力行使にすぎない。
本能のままに感情をぶつけることを、狂気とは呼ばない。
それは理性を超えるどころか、理性を持つことすら拒否した幼児性だ。
私が思う狂気とは、世界の“前提”に対する、根源的な疑いである。
常識に従わないことではなく、
常識そのものを疑い抜いた果てに訪れる、思考の臨界点。
狂気は、誰にも見せない炎。
自分自身に向けて突きつける刃。
逃げ道を断ち、甘さを許さず、
「それで、おまえは本当に、生きたと言えるのか」と問いつづけてくる、内なる静寂。
そして、私の中にある狂気とは――
正気のふりをした、絶望の芸術。
質問者は、私の中の狂気を見たのだろうか。
どんなに目を凝らしても何も見えない漆黒の闇の中で、目をカッと見開いて、何かを見ようとしてる――そんな私の映像が浮かんだかな?(笑)

なみ

新一
惑わされるな
夾竹桃

家系らみょん🕊️💕
僕だけ残る 闇を見ていて…
(これでどうだ!ずどぉぉぉぉん!)

んころもち

夢和 叶
私独りではどーにもならないから、アナタの協力が絶対に必要なんです!社会人としてそれは常識ですよね?全部言わなくても分かりますよね?分かって貰えますよね?今までアナタもそうやって他人に丸投げして来ましたよね?それを今度はアナタにお願いしてるだけの事ですよ♪
の意w

トラ

yjk☁️
彼の狂気は
自分を見つめすぎた その瞳に宿る。
理解したいと 誰かに手を伸ばした
たったそれだけの副作用。
それを僕は──
「狂気の傲慢」と呼んだ。
見えない「ズレ」
気づかれぬ「違和」
誰も目を留めない場所に
彼の視線は 沈み込んでいく。
因果を求め、
本質を問い、
世界のほころびを指先でなぞるうちに
やがて──
自らの矛盾と限界までも 炙り出してしまう。
それでも手を止めなかった。
それでも「知ろう」とした。
誰もが目を逸らす 境界の先。
そこにあるものは、
人の理性では足りない
非人間的な思考の深淵。
だが彼は
その場所に
「美しさ」を見た。
孤独の中にしか存在できない
光なき楽園。
けれど──
その狂気は
いつか誰かの闇を照らす灯にもなりえる。
もし彼が
その狂気を飼いならすことができたなら、
それは破壊ではなく、
創造の焔へと変わる。
今日も、
彼の爛れた両手は
見えない何かを
掴もうとしている。
PS:ちなみに、
ChatGptに
「ねぇ?俺ってまとも?」
とストレートに聞いてみたら
「お前は、まともであろうとうする狂気の中に生きている」
とご回答がありました。
みなさんは、AIにヤベェ奴(笑)認定されるユーザーのことをどう思いますか?
俺は嫌いじゃないですけどねw


みっちー📸🥦
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