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あお🫧
回答数 39>>
だがその定義の多くは、“他者の視点”によって決められているものにすぎない。
では、もし「他者の物差し」から自由になったとき――
私たちは狂気と正気を、どうやって区別すればいいのだろう?
私にとっての狂気は、“静かな極限”だ。
それは叫びではなく、沈黙のかたちをしている。
誰にも理解されることを求めない、孤独の温度。
その存在感はときに、理性よりも真実に近い。
狂気は恐怖ではない。
それは、誰にも明かさなかった“本心”を、ただじっと見つめ続ける姿勢のこと。
むしろ私は、そこに美しさすら感じている。
何かを強く信じているとき、人は狂気に近づく。
とくにそれが、誰にも理解されないとわかっているとき。
それでもなお、自分の内側にしかない「正しさ」を手放せないとき、
私は狂気の端に立っているのかもしれない。
たとえば――
誰にも見せていない努力を、いつまでも続けてしまうとき。
「どうせ伝わらない」と思いながら、それでも言葉を綴ってしまうとき。
誰の声も届かない場所で、それでもまだ言葉を紡ごうとしてしまうとき。
そんなとき、
「私は今、誰の正気にも属していない」と思う。
でも、それは決して恐ろしいことじゃない。
むしろ私は、その場所に居る自分を、どこか誇らしく思っている。
人を傷つける狂気は、狂気ではない。
それは、ただの甘え。
お菓子をねだって、地面に寝転び、じたばたする子どものような、
愚かで稚拙な実力行使にすぎない。
本能のままに感情をぶつけることを、狂気とは呼ばない。
それは理性を超えるどころか、理性を持つことすら拒否した幼児性だ。
私が思う狂気とは、世界の“前提”に対する、根源的な疑いである。
常識に従わないことではなく、
常識そのものを疑い抜いた果てに訪れる、思考の臨界点。
狂気は、誰にも見せない炎。
自分自身に向けて突きつける刃。
逃げ道を断ち、甘さを許さず、
「それで、おまえは本当に、生きたと言えるのか」と問いつづけてくる、内なる静寂。
そして、私の中にある狂気とは――
正気のふりをした、絶望の芸術。
質問者は、私の中の狂気を見たのだろうか。
どんなに目を凝らしても何も見えない漆黒の闇の中で、目をカッと見開いて、何かを見ようとしてる――そんな私の映像が浮かんだかな?(笑)
コメント
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じゅん

ユーリ

ポリぶ
今回覇者として表彰されてるのをみるとこっちまで嬉しくなるね

あか
・普通にピナクルの星檻がきつい
・赤単の軽量除去もきつい
・まわれば強いは事実
・負け盤面から捲れるのはビビ釜の時に似ている
→強いが、今の時期は過剰にメタられてきつそう、というのが結論
※都合が悪くなったらこのツイートは削除されます。
てのひらくるくる

でたら
コレチカはどこで楽しめる?
コレチカは、主に以下の場所で楽しむことができます。
イベント会場: コレチカは、特定のイベントやフェスティバルで体験できることが多いです。例えば、アートフェスティバルや音楽イベントなどで、コレチカに関連するアクティビティが行われることがあります。
カフェやレストラン: 一部のカフェやレストランでは、コレチカをテーマにしたメニューやイベントが開催されることがあります。特に、地域の特産品を使った料理やドリンクが楽しめる場所を探してみると良いでしょう。
オンラインプラットフォーム: 最近では、コレチカに関連するコンテンツやイベントがオンラインでも楽しめるようになっています。ウェビナーやバーチャルイベントなど、参加しやすい形式で提供されていることが多いです。
具体的な場所やイベントについては、地域の情報サイトやSNSをチェックすると、最新の情報が得られるのでおすすめです。

はるっ
長男がその子の家に遊びに行ったとき、その子の弟(うちの障害児の二男と同い年)と遊ぶのが楽しそうだったから普通の弟と遊びたいんだと思う。って下の子を預けてきたことあるんだよね。きょうだい児=不幸て思われがちだよね。世の中にはたまにバケモンいるよね
#あさイチ

もちチ

青山

カイリ
少し落ち着いたわ!!薬ありがとう!!!!!

そーま
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あお🫧 投稿者
カッコいいよ、孤高。 誰かがくれたことば‥
Shu
心震える。保存版だ🍴🙏
たか
質問者さんに対してのあおさんのメッセージ、熱がこもってるなぁ[ほほえむ]
はるじおんのみこと
いままでで一番共感しました[ありがと]
らかん
🌹