私は、数値ってすき。努力が“見える化”される気がするから。「〇〇点」「〇〇回」「〇〇%」――積み重ねた時間や、誰にも気づかれなかった頑張りが、形になることで、自分の中でやっと「ここまで来た」と思える。でもそれは、他人に認められたいからじゃない。他人のスコアや“いいね”では、私の本当の努力の深さまでは、見えていないと思うから。私は、自分だけが知っている“がんばったログ”を信じていたい。泣きながら続けたこと。黙って終えたこと。言わなかったこと――ひとつひとつ、心の中で数えていくようにして。だけど、世の中には数値にならないことの方が多すぎる。たとえば、「やさしいね」って言われるとき。それは、何回声をかけたか、何回頷いたか――そんな“わかりやすい回数”だけで決められている気がする。でも、やさしさって本当にそれだけ?ときには、他者にとって耳が痛いことでも、必要なら伝える。それもまた、やさしさじゃないのかと思う。誰かのために言葉を選ぶ苦しさや、沈黙という選択に込めた想い――そういう“ほんと”や“深さ”こそ、数値で表せたらいいのに。痛みにだって、数値がつけばいいのにと思う。「強いね」って言われることがある。でもそれは、努力で身につけた回復力であって、決して、痛くないわけじゃない。何度刺されても、傷に慣れることはない。回復力があることと、傷つかないことは、別なのに。だから、願ってしまう。見えないものにも、数値があったらと。わかってほしいとは、もう思っていない。諦めた分だけ、自分の軸に寄り添ってきた。でも、ときどき思う。この痛みや選択にも、数値がつけられるなら、私は、この軸をそっと差し出せたかもしれない、と。気づかいポイント、こらえた涙、声に出せなかった「たすけて」メーター。誰もが持つ“努力のログ”が可視化されたら、きっと少しだけ、世界はやさしくなる。そんな仕組みはまだないけれど――私は、今日も黙って積み上げる。私はINTJ。圧倒的に少数。少数というだけで、「なんか変」と言われる。この社会では、平均値が“ふつう”で、“ふつう”が、まるで正義のような顔をしている。つまり、平均から外れた私は、最初から「悪」なのだ。もう、善悪さえも数値化されたらいいのに。
気にするのは何の数値かによる。🦀🌃時には残酷さを、時には感情を排した真理をくれるものとしてかなり信頼している。思春期の頃はテストの点数、身長、座高とかで一喜一憂してたよ。小数点第三位の世界で働いてた時は有効数字(数値の精度を示すもの)が指示されてない自然数に不安になるようになった。例えば10は10.000とか入っててほしい。10が実は省略された9.569とかだったら😱