〝「幸せ」という概念〟多くの人々にとって「幸せ」とは、自分の欲求を満たしたときに感じるものであろう。そこから脱して「幸せ」を感じる人々を前者の人々は、得体の知れないものと感じてしまう。一対多…を考えると、多が勝るので其れも仕方がないと思うが、後者が感じる「幸せ」を感じてみたい今日この頃である。
再定義から逸れてしまうけど、昔からあることば「苦あれば楽あり」苦楽のバランス、楽が続けば感覚が麻痺して幸せを感じなくなる。苦が続けば楽、幸せの感じ方も大きい。再認識したキッカケの某曲の歌詞鳴呼 私が生きているのは喜びのため鳴呼 私が喜びあるのは苦しさのゆえ鳴呼 私が泣いているのは幸せのため鳴呼 私が幸せにあるのは苦しみのゆえに等価交換に近い考え感じ方、人間は単純なようでよく出来てる。
しあわ~せ~と~わ~♪「大切な人に降りかかった雨に傘を差せることだ」……うん。その通り(笑)幸せって、むずかしい。涙の朝も、歯をくいしばる日々も、簡単な日はない。泣いたり、悲しんだり、耐えたり……。まるで、幸せとは反対の言葉が溢れる毎日。お米の高騰を嘆きながらも、今日も白ごはんを食べられてる。「おいしい」と感じられる平和が、そこにはある。満たされていないと思いながらも、最低限以上を与えられている。そのことに感謝を忘れているのかもしれない。「苦しいな」と思う日々。でも、そんな気持ちにかまけていられるだけの平和や余白が、自分にはある。感じる余地があること、それ自体が見えない幸せなのかもしれない。ある歌に「幸せになりたい気持ちがあるなら、明日を見つけることは簡単」とある。「いやだな」「かなしいな」と繰り返して、同じ事象を引き寄せてるのかも。だから試しに、根拠なく笑ってみる。明るいふり。でも、どこか空しい。幸せから遠ざかってる気がする。満ち足りている。“不幸”を嘆けること自体が、守られている証なのかもしれない。太陽の光に「きれいだな」と感じるとき、その感情に、一筋の切なさがある。思う。幸せって、バランスだ。快が不快より少し多いとき、私は少し深く息をして、体をゆるめることができる。幸せとは、快と不快のあいだで息をつける瞬間。それが、今の私の考える幸せ。だから、幸せのかたちは、人によって違うんだと思う。らかんさんすてきな質問をありがとうございます☆