『自分』とは記憶の連続性なのか、それとも今この瞬間の意識なのか?
10年前の自分と今の自分は、細胞も考え方も大きく変わっています。それでも同じ「私」だと言える根拠は何でしょうか。もし記憶をすべて失ったとしても、あなたはあなたでしょうか。
たれぱん
今この瞬間の意識は「自分」です。
その瞬間が過去へ積み上がって記憶になります。これも「自分」ですが、過去の記憶なので、今の意識で過去は変わりません。
今この瞬間の意識が「自分」なので、10年前の細胞も過去の記憶も、今意識があるだけで、「自分」である根拠としては充分かなと思っています。
例えば、事故で足を失ったとしても「自分」です。事故で頭を強く打って記憶がなくなっても「自分」です。

🎮💧
すみれ

まりまり
そして 進んでいるのが 自分

たくひら
私たちはまず、世界に産み落とされます。それは好むと好まざるとに関わらず、私たちは世界に晒されることになります。ただ、同時に私たちはそこから生まれ得る存在です。ですので、私たちはいつでも、それこそ本当に何時でも自分を始められます。
この時私たちは、どうやって私たちを始めることになるのでしょうか。それは例えば3年後5年後どうなっていたいかという感覚があるかもしれない。或いは後悔の末にここから変えていきたいと思うかもしれない。或いは今までの人生をそのまま穏やかに過ごしたいと思うかもしれない。これら全ては未来に対する眼差しです。つまり私たちが私たちを始める時、今の私たちが未来の私たちのために「約束」をしているのです。そして、日々どこかのタイミングでこの「約束」を思い出す時があると思います。この「約束」が強固であればあるほど、自分の連続性は強く保たれるのだと思います。
さらに「約束」は日々の行動に残滓として必ず残ります。自分が「こうなりたい」と未来に対して「約束」をする。結果、ほんの少しだけ「選択余地」が生まれる。言葉を選ぶ、歩き方を変える、人との接し方をほんの少しだけ変える。この連続が未来の自分への「約束」につながっていく。だから、もし仮にこの「約束」が強固であれば、記憶を失ってもどこかで過去の私が現在のそして未来の私に対して行った「約束」を見出すことが出来るはずです。なぜなら記憶を失った私でも、私である以上、その「約束の残滓」を拾い集めることが出来るはずだから。そう信じて、私は日々未来の私と「約束」し続けています。

憂い顔の騎士

丁寧
連鎖の重なりは「自分」に積まれていきます

サト
過去の「私」がなければ今の「私」はいない
例えば極端な話
完全に過去の記憶を無くしたとして
「左手のこの傷はなんだろう」
記憶は無くしても
「左手にこの傷があるのが私」であり
傷があるなら「怪我をしたという過去」がある
全細胞が入れ替わったとして
過去の細胞があるから
「新しい細胞に入れ替わった」
という事実がある
ということかなとは思った

世紀末覇者ラ王
もし記憶がすべて失われたなら、本人にとっては過去の自分との比較材料がなくなる。
だから「私は以前から続く同じ私だ」という自己認識上の同一性は、大きく失われる。
ただし、家族や友人、名前、記録、身体など、他者や社会から見た連続性は残る。
つまり、本人側の同一性と、関係性・社会側の同一性は別である。
見習い
「自分」を、単純に記憶や今この瞬間の意識だけで考える必要はないのではないか。
まず、世界の内側に存在する自分には、身体・脳・神経活動・記憶・意識などによる連続性があります。
ただし、それが物理的に完全な連続である必要があるのかは分かりません。
蛍光灯が高速で点滅していても、一定に光っているように認識できるように、ある程度の時間や空間の断絶なら、一つの連続した存在として成立する境界があるのかもしれません。
そして、それとは別に「世界から見た自分」という連続性も考えられると思います。
仮に“魂”というものがあるなら、それは身体の中に入っている物質というより、世界に登録されたアカウントやIDのようなものなのではないか、という仮説です。
そのIDが世界線や座標、因果的な連続性などによって維持されているなら、記憶や身体が大きく変化しても、世界側から見れば同じ存在として扱えるかもしれない。
逆に、記憶や身体が完全に同じ存在を作れたとしても、別の座標・別の世界線なら別のIDになり得ます。
つまり「自分」という存在には、世界の内側で認識される連続性と、世界側、あるいはさらに上位の情報層から管理される連続性があるのではないかと考えています。
なので、もし記憶をすべて失ったとしても、「自分だと認識する自我」は変わるでしょうが、それだけで「世界における自分」という連続性まで失われるとは限らない、というのが私の考えです。
もちろん、これらはあくまで私の個人的な解釈・仮説に過ぎません。
ただ、こう考えてみると、いくつかの問題について辻褄が合うように思える、というところですね。
もっとみる 


