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自由とは、ハンドルを自分で握れることか?それとも自分で道路を設計できることか?

例え話にはなるけど、 自分が行きたい場所へ車を操作できることってかなり自由に見える。 でもその自由って道路という限られた範囲の中での自由なんじゃないかと思うんだ。 だとしたら、道路すらも自分で設計できる人は 車の自由を奪うことすらできるほど自由な人間だと言えると思うんだ。 走り屋だろうが暴走族だろうが、 結局は誰かがつくった道路の上を走らされてる。 余談だけど面白い例を挙げると、 オフロードバイクとかマウンテンバイクみたいな乗り物の運転なら誰かがつくった道路の上以外も走れたりする。進む道を自分で決められる。 そしてもう1つ、 自分で車を運転せず他人に運転させる。でも、目的地は自分が指定する。これなら、自分で運転しなくてはいけないという制約からも外れられる。
クロネク

クロネク

ハンドルを握って自分で決めた道を進む事が自由だと思われるので、両方あってこそかなと思います。
また、自由とは責任も伴うと思いますので、自己責任で自由の旅への運転を行ってください。
それでは良い旅を👋
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ゆう@ほれほれ

ゆう@ほれほれ

あるいはそれを選べることか
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かずら

かずら

自由とは、
道を開き、車を作り、自分で走らせ、事故した怪我を負い、傷を癒して、また道を開く。

『自由』という事象があるというよりも、そういう能動的営みのサイクル全体を『自由』というのではと、そんな感じがする。
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くま

くま

どちらも自由だと思います。
ただし自由の種類が違うので、
単純にどちらがより自由とは言えないですね。
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りょうなおはな

りょうなおはな

自分はどちらもいいと思うよ❗
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sin

sin

自由とは
法律やルールの上で自由があるといえますし、主観と客観に基づくと言えます

ハンドルを握るのも道路を設計するのも法に基づいていますし、山林を駆け回るのも許可なくする事はできません
自由と感じるのは人それぞれに主観があって、自己が自由と感じるならそれがその人の主観なので、もしそれに他者が批判するなら思慮が足りないと感じます
しかし、自由と感じているのは完全な自由で無く、法の枠組みの中でそう感じているだけです

完全な自由を求めるならカオスな社会で実現できます



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ナトル

ナトル

ハンドルを自分で握っている状態だと思います あとはそのハンドルを持っていることによる責任を全て自分が背負うという勇気があるかというのもあると思います 道路というのは 予想図と歴史として形に残っているの と思います
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まるまる

まるまる

自由とは、、となるとハンドルを自分で握ることかと。道路を設計してもハンドル次第で自由に道を逸らすことができる。
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オイカワ

オイカワ

後から思い出して「自由」だと思えれば、結果として「自由」。
行動は、無意識が判断しシミュレーションしたことを、意識が実際の行動に移すことで成り立っている。数々の脳科学実験で明らかになっている。

我々は、無意識の選択を実際に「行動に移さない自由」しかないらしい。
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ひかり

ひかり

キノの旅のエピソードにあったな…自由とは人を傷つけるのも自由、しかしそうなった瞬間に周りから傷つけられる自由も発生する。

今回のケースに落とし込むと、設計は出来るだろう。が、地面の価値は、下の水道管やケーブルは、住む人がいれば押し除けるか…
当然完成しても有用でなければ費用はおりない。人と関わり続ける限り、作る側が自由なんてことは幼稚な考えだ。どんなに正しく作っても、絶対クレームは発生するしね。
無人島で、自分しか使わない道路を設計するなら話は別だけどね…。
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