目に見えないものを信じることと、「思い込み」の境界線はどこにあると思いますか?
スピリチュアルの世界には、
魂や前世、守護霊、エネルギーなど、
客観的に証明することが難しいものがあります。
本人にとっては確かな体験や感覚でも、
他者から見れば「思い込みでは?」と感じることもある。
一方で、客観的に証明できないことと、
その人が実際に何かを感じたり、
そこに意味を見出したことは、
分けて考える必要があるようにも思います。
では、
「自分にとって確かに感じること」と、
「それが事実として存在すると考えること」には、どのような違いがあるのでしょうか。
そして、その境界線はどこにあるのでしょうか。
皆さんは、
目に見えないものを信じることと
思い込みの違いを、
何を基準に判断しますか?
そもそも私たちは、
何をもって「事実」だと判断しているのでしょうか。

若
꜀( ˙꒳˙ ꜀)ハー

ナトル
ブラックテール
思い込んで良い結果もあれば、悪い結果もあるし。
でもそう言うのって信じ切らないといけない。
それこそ絶対と言う信念。
bucktick

ちび
信じて良かったと言う成功例が次からの思い込みになるのでは

コバンざめ
ある集団のなかで多数派があると言えばそれはあることになる。その集団のなかで少数派なら思い込みとされる。例外はそれを判定する専門家またはルールを集団が用意した場合は、それが境界になる。これは科学的に正しいとは関係なく、集団のなかでそうみなされるということ。現代では、科学をその判定に使うので、目に見えないことは、思い込みであると集団に判定されやすい。もちろん、科学的に証明できないものが存在しないといっているわけじゃない。

オール・リリコ
というか
思い込み
というかの違い

ちゅん
スピリチュアルの世界では 自分の中でカーテンをしてみないようにしてるから 境界線は 自分の中のカーテンかな✨

たくひら
思い込み
自分にとって確かに感じること
それが事実として存在すると感じること
事実
今回の問いの中にあるキーワードを抜き出してみました。おそらく問いを作った人の中では、ある程度同じようなことをぐるぐる回っている言葉として置いているのだと思います。まず、私にとってこの状況がとても興味深い。なぜなら、この中で「思い込み」と「事実」には明確な他者性が含ませている様に見えます。残りの3つは「信じること」「感じること」となっており、丁寧に扱わないと他者と理解や共感のための橋をかけるのが難しそうだというイメージになっています。
その上で、扱いやすそうな「思い込み」についてまず見てみましょう。なぜ私がこれを他者性があると捉えたか。この言葉、基本的に「他者→自分」や「誰か→誰か」の評価性のあるベクトルが飛んでるワードに見えます。とすると、「これは思い込みなんじゃないか??」という疑念が自分の中に生まれるのは、そのことを他人に指摘されるか、自分が世界や他者などを観察していく中で自分の中にある何かが変わっていき疑念に辿り着く。つまり、自分に対する「他者の眼差し」が突き刺さった時に生まれる疑念なんじゃないかと思います。
続いて、「目に見えないことを信じること」「自分にとって確かに感じること」「それが事実として存在すると感じること」をいっぺんに見ていきます。これが何故いっぺんに見れるか?というと、今出てきている言葉を自分に当てはめてみると、私はこれをかなり自覚的にやっています。それは「言語になる前の自分の経験を思い出したり違和感を断定せずに味わったり、認識や知識や感性の手触りを記憶や実態を通じて再確認したり」という、いわば「メルロ=ポンティ的身体」に注目したときに出てくる感覚に限りなく近いと感じます。私の感覚では、これは謂わば完全な一人称的感覚であり、誰からも否定され得ない・誰も否定する権利を持ち合わせていないその人個人の感性のベースそのものを指しています。
もしこれを指しているとしたら、「目に見えないものを信じること」と「思い込み」を分ける決定的な違いは明らかです。根源的に疑い得るものであるのか。メルロ=ポンティ的身体感覚は、それが仮に自分視点であっても、疑い得るものではありません。誰も疑う権利を持ち合わせていないものだからです。
くらげ
でもそうじゃないかもしれない。けど、目に見えないものを信じるならやっぱりポジティブな感情や事柄の方がいいなぁ。
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