「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」はどんな意味か
ニーチェによるこの有名な一節は、前文に「怪物と闘うとき、自分も怪物にならないように気をつけなければならない」とある。
前文含め、あなたのこの文についての解釈を教えてもらいたい。

フレム・チェンバース
って ことでは なかろうか!!
つめたい コメントには つめたい しせんが あたたかい コメントには あたたかい しせんが あつまると いうこと だろうか!!
見習い
深淵とは、人の力の及ばない、底の見えない領域。そこを深く覗き続けると、深淵そのものに意思があるのではなく、自分の認識が次第に侵されていく。
「自分が穴の外から覗いている」のか、「いつの間にか穴の中から世界を見ている」のか、その境界が分からなくなる。
物事を深く考えるということも、ある意味では同じなのだと思います。最初は別々に見えていた事柄も、その構造を掘り下げていくほど、共通する法則や繋がりが見えてくる。
つまり深く覗くとは、対象を理解するだけでなく、自分と対象を隔てていた境界そのものを取り払ってしまうこと、あるいは、そもそもそんな境界はなかったのだと気が付いてしまうことなのかもしれないと考えています。

シズ
「怪物と闘う者は、その過程で自分もまた怪物にならぬよう気をつけなければならない。そして、長く深淵を覗き込むなら、深淵もまたこちらを覗き込む。」
『善悪の彼岸』(1886年)の一節です。
深淵を、悪、絶望、 死、無意味、人間の欲望、自分自身の暗い部分
などと考えることができます。
例えば「人間はなぜ悪を行うのか」と徹底的に考えていく。
最初は、「悪い人間を理解しよう」
としていたはずなのに、いつの間にか、
「自分の中にも同じものがあるのではないか」
というところまで到達する。
つまり深淵を観察しているつもりが、自分自身を観察することになる。
「こちらを覗いている」とは何か
ここが一番重要です。
深淵そのものに目がある、という意味ではありません。私たちは何かを見つめるとき、必ずそこに自分自身の価値観や恐怖を投影する。
「私は深淵を見ている」
と思っていても、実際には「深淵を通して、自分自身が何者なのかを見ている」とも言える。
ニーチェの前半、
怪物と闘う者は、自分も怪物にならないよう気をつけなければならない。こちらがむしろ重要です。例えば「悪をなくす」という正義から始めた人が、悪を憎むあまり、自分が排除しようとしていたものと同じ方法を使い始める。
「敵を倒すためなら何をしてもいい」となった瞬間、敵を批判していた自分自身が、敵と同じ構造に入ってしまう。
この言葉は、「対象を理解することによって、自分自身も変化する」という問題を含んでいます。
「あなたが世界を見つめていると思っているとき、世界を見つめるあなた自身もまた、問いの対象になっている。」だと思いますが。
フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』
「怪物と闘う者は、その過程で自分も怪物にならぬよう気をつけなければならない。
そして、長く深淵を覗き込むなら、深淵もまたこちらを覗き込む。」
第146節です。
日本語訳はいくつかありますので、図書館などで読み比べるのも面白いです。

バード
Sana ✨

男60GTアゲイン!

ネオアラウンド冷泉院
化学的な話をすると、臭いを感知した時点で、臭いを発するもの自体は感覚器に取り込まれた後です。
うんこの臭いを感じたのなら、極めて微細かつ少量であろうとうんこは体内に取り込まれている。

pophat
なぜそうなってしまったのかを問いかけると、
お前はなぜ疑問もなくそちら側なのか問い返され、深淵の側に沈みかねないと言うこと。
簡単な例は、人はなぜ笑うのか楽しいとは何なのか問われると笑えなくなる。とか
説明するまでもないと思っていた事を問われると、それはもう深淵を自分の中に飼っている状態になるのかなと

ナトル
我を知り 我を学び 我の危うさを気づけ
という意味ではないかな と感じます

パラソリッド
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