自分で選んだと思っている選択は、本当に「自分」で選んだものなのでしょうか?
私たちは日々、自分の意思でいろいろなことを選んでいます。
でも、その「選びたい」という気持ち自体が、育った環境、親から受けた価値観、過去の経験、世間の常識、人からどう見られるか、成功や失敗への恐れなどから作られているとしたら。
どこまでが周囲から受け取った価値観で、どこからが本当の自分の意思なのでしょう。
そして、あらゆる影響を受けて形成された「自分」が選ぶことも、自分の意思と呼べるのでしょうか。

SHO
自分をつくったものに、選ばされている。

はな

くま
すべて自分が選んだ選択です。
たれぱん
人は生まれてから、親や家族、友人、社会などから、影響を受けて、人格が形成されていくと思います。
全く他から影響を受けなければ、言葉も話せないかもしれません。
私はCMに影響を受けて、要らないものを買ってしまったりしますが、それも私です。

たくひら
という、ものすごい循環回答をなぜ出すかといえば、この問いの2番目の「自分」に鉤括弧が付いているからです。ちなみにこんなことをハイデガーやヴィトゲンシュタイン、アーレント、メルロ=ポンティあたりの前で言ったらその場で蜂の巣にされますねw
さて冗談はともかく、これは主体論という長い哲学の歴史背景のある問いだとして、先に進みます。
そもそも、私たちは自己というものを他者なしで認識することはできません。或いは言葉なしで認識出来ないと言い換えてもほぼ同義になります。つまり、「自分で選んだ選択」の中にどこまで他者が入っていて、どこまで自分が入っているかは、実は自分でもよくわからないのです。
しかし、それでも私たちは誰かとは違う経験や言語化の前にある無意識の認識、或いは意識無意識を行き交う過去とそれに付随する記憶がある。そしてそれらを材料にした思考のベクトルがある。私はこのベクトルこそがニーチェの言う「力への意志」だと考えています。そして、「力への意志」を支えるものは何かというと、選択後の行動にかかっている。その選択をした自分に対する責任と周り(=世界や他者)に対する誠実な応答だと考えます。
その上で、この問いの私の回答は「自分で選んだと思っている選択肢の中に、どれだけ自分で選んだと言える部分があるのかはその時はわからない。だが、ある選択を基点に、その後の人生に無数の選択が待っている。基点となった選択に対して、いかにその選択を自分のものとして受け取り、他者と関わって行くか、そしてその後の無数の選択群に対し誠実に応対し続けた時、その選択とその選択を基点とした後の選択群の中にある自分の濃淡が決まる」ということになります。

黒石
よく考えもせず選ぶ
ウソに騙される
信じたいことを信じたい結果騙される
感情的に決めてしまって後悔する
何かおかしい、ホントなのか?と思いながらもそれを選んでしまうなど…
飲食店のおすすめは味なのか利益率なのか?
流行は仕掛け人がいるし、日本人は流されやすい
それでも最後の決断は本人の責任です

ジンバブエゆみか
自分の意志でどうこう出来ることはごくわずかです。
その瞬間はたしかに自分で意志決定したと思っていますが、振り返ってみると様々な人の手助けやタイミングなどどう考えても導かれていたとしか思えないことばかりです。

紀文屋
『選ばなければならない選択肢が現れた瞬間、“もし、コレを選んでなかったら”という考えも生まれてしまう』のかな、と思います。
そしてしばしば「あっちを選べば良かった…」という考えが、「本当に自分が選んだのだろうか?」という考え方に発展してしまうのではないだろうかと思っています。
私の答えとしましては
『間違いなくあなたが選んだ事です。どんな外的要因があったとしても、それらの状況を踏まえたあなた自身が選んだ事です。』
と、なります。
私の中ではワリと危険な考え方だと思っているので、線引きはキッチリした方が良いと思ってます。

ナトル

世紀末覇者ラ王
本当の自分を外部影響のない純粋な核として探すのではなく、影響を受けながら何を選び直す主体なのかを見る。と私は思っています。
どこまでが周囲から受け取った価値で、どこからが自分の意思なのか。
私は、その境界を完全に仕分けることはできないと思っています。
これまで周囲との比較によって得た経験が、主体にとって今の価値観となり、その価値観が前提となって次の選択をしています。
友達に勧められたからでも、トレンドだからでも構いません。
その中から「これを選んだ」という行為そのものに、私は意思があると思います。
そして、
その選択で失敗したなら失敗を知ることができる。
満足したなら、自分にとって何が満足なのかを知ることができる。
そうして選択と経験を繰り返すことで、自分が何を好み、何を嫌い、何を大切にするのかが少しずつ見えてくる。
それらはすべて、自己像を知るための鏡に過ぎないのだと思います。
本当の自分も、偽物の自分も、
どちらもあって人間なのかもしれません。
不完全だからこそ完全を求め、
わからないからこそ自分を知ろうとする。
その繰り返し自体が、人間なのではないでしょうか。
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