現象はラベル(言葉の定義)を通さないと認識できないのか?※本文あります。
グラビティで「言葉にできないモヤモヤ」という表現をよく見かけます。
では、その「言葉にできない現象」は、概念としてどのように認識されているのでしょうか。
そこから、このお題を考えました。
「寂しい」という現象に対して、あなたは何をもって「寂しい」と認識していますか?
人がいないことですか。
誰かに会いたいと思うことですか。
期待した反応が返ってこないことですか。
過去の経験との比較ですか。
それとも、言葉になる前の身体感覚でしょうか。
私たちは「寂しい」とラベルを貼ったあと、その現象を理解したと思っているだけなのか。
それとも、ラベルになる前から「寂しい」という認識は成立しているのか。
正解・不正解には、一切こだわっていません。
現象が概念としてどのように認識されるのか。あなたにとっての「現象」と「概念」を教えてください。

オイカワ
ガザニカの分離脳実験から見れば、無意識という主体は既に現象を認識しており、無意識は意識の持つ言語を通すことで、無意識が表出されるという流れになります。
目の前のもの選択する時の脳の動きを調べた結果も、①無意識が選択、②無意識でシミュレーション、③意識が認識、④意識が行動に移す、という流れになったそうです。
目の前のコーヒー、紅茶、どちらを飲みたいかは、意識に昇る前、7〜10秒前には無意識で決まっているそうです。
感情は平等というより、無意識の思考の結果です。例えば物陰で何かいるとき、論理的に考えていたら、時間を要して物陰から飛び出してきた虎に殺されるなんてことになります。不安感という感情(無意識の思考結果)に従ってすぐ逃げれば救われます。
意識というか認識を過大評価している気がします。こう書いている私も、過去は意識に重きを置いていました。

II
ラベルがあると見やすい
ただしラベルが事実とは限らない
定義すら危うい事が圧倒的に多い
ラベルが正しいかどうか、1度チェックしておけばゴミ情報と距離を取れる。嘘は経済の邪魔でしか無いので。

いいよE-yo

F
グラデーションやニュアンスのある感情(現象)が先にあって、それを表す近い言葉(概念)を頭で探した時に「ストレス」→「不足」→「寂しい」と細分化され、答えに近いものに辿り着く感じかなと思います。
でもそのラベルはあくまで「目安」や「座標」みたいなものでしかなくて、たとえば最初の感情が「青緑色みたいな感覚」だとして、その心の機微を言葉で完璧に言い表して辿り着くのは難しいことかなと思います。
ただその振り分け作業を怠る人が自分の中で生まれる感情を何でもかんでも「エモい」みたいなめもりの荒い言葉の中にぶち込むのかなとも思うし、
逆にまだ名前のついてない感情はいくらでもあると思っていて、例えば日本語の「悔しい」なんかは英語では”regret”とか”frustrating”とか”mortifying”になるけど、どれも日本語でいう「悔しい」とはちょっと違うかも?みたいなことはよくあるし(日本語のめもりの細かさも、英語の荒さも好きですが) 、
やっぱり言葉は感情を他人に(あるいは自分に)とって分かりやすく定義するために立てる旗みたいなもので、いちばん最初に生まれる生の感情は、感じる人の経験や人格やフィルターをもってして初めて受け取れる、どうしたってその人だけのもので、言葉はまるで追いついてないような気がします。

グラ居酒屋「たけ」
いわば表現ってのはレゴブロックの組み立てみたいなもんだと思う。
だけどラベルをつけるのとは大きく違って、人はレゴブロックの表現しきれない、形はできているが、不十分な余白から何かを感じ取ったりできる。
人はこれを「察する」というんだろうね。

まーさん
分かり合うのは
無理だよ


せい
やはりラベルの意味を遡及するとき、個人個人の知識や経験、関心の違いで変わってくる。しかしながら、ラブソングとか、そういった感情の普遍的な理解は案外みんな持っているからビジネスとして成り立ったし、どちらかと言えば、このラベルにはグラデーションがあって、感情についてもグラデーションのライトトーンでしか感じられない人と、ダークトーンまで感じられる人もいるので、夏目漱石が考えた近代の苦悩は、まさに長文の文学に託さねばなかなか伝わらない曖昧さ、深さがあるのではないかな。

G-K
寂しい、というものの場合
寂しいと定義した体感覚にラベルを貼っているので
ああ、これは寂しいのか、と思い
状況理解と関連付けます。
もやもやした…というのは
言語化できていないので、そのままです。
もやもやした…という概念です。
いつかそのうち解明して、ラベルを貼ります。

せいたろう
ある人の寂しいという状態は、言葉を通じて初めて概念化されるのです。
こうして寂しいという言葉が出来ることによって、寂しいという概念が作られ、寂しいんだな、という共有化ができます
しかし、実際の個々の人の寂しさは、言葉でいいつくせないほど、個別のものです。
この実際と概念のギャップを埋めるために、文章がうまれ、文学や詩歌がうまれたのかもしれません。
また、言霊と言われるように、言葉はたまたま生まれるのではなく、概念をあらわすのに適切なように、人々が考えて出来上がったものであり、それで霊が宿っているのだと思います

たくひら
その上で途中で「寂しい」という話が出てきているのでこれを使って説明します。
まず、「寂しい」風の言語化できない感情が生まれます。それを神経系の反応や今まで「それは寂しいという感情だよ」という他者からのフィードバックなどを擦り合わせた結果「どうやらこの感情は寂しいと表現して良さそうだ」という認識を得ます(一人称的認識)。その上で、意識的に或いは無意識的に「寂しい」と名付け・ラベル付するとなります。ちなみにこの「ラベル」や「名付け」は一人称的認識には影響を与えません。一人称的認識が「正しいか誤っているか」を「確認する」際の三人称的認識において必要となります。三人称的認識を通じて人はコミュニケーションをするので(でないと言葉の定義が固定されない)、一人称的認識を他人に出来る限り正確伝えたい時に名付けが必要となるという説明にもなります。
なので、SNSなどで言われている「モヤモヤした感情」というのは、経験不足・語彙不足による「名付けの失敗」という現象だと思っています。ある意味で「モヤモヤした感情」という名付けをしたものの、このモヤモヤという言葉が他者がそうとして受け取れるだけの確たる定義が存在していない(三人称的認識において確たる定義が未定義の言葉のひとつ)あやふやな言葉と言えるでしょう。
なので、この問いの答えとして取り出すと
「自分が認識するという意味では名付・ラベルは必要ないが、その認識が自分を超えて他者に伝わることを目的とした時、名付・ラベルを必要とする」
が答えになります。
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