あなたにとって「知識」とは、足し算方式ですか?それとも引き算方式ですか?※本文あります。
私は、知識というと「知らないことを増やしていくもの」というイメージがありました。
でも最近は、知ったことをそのまま積み上げるだけではなく、前提を疑ったり、概念を分けたり、いらない思い込みを外したりすることで、むしろ理解が深まることもあるのでは?と思っています。
みなさんにとって知識とは、足していくものですか?それとも、削ったり手放したりしながら残していくものですか?

はる
ということは、先ず足し算から

コーユー
知識そのものは、基本的には増えていきます。間違った知識を正しいものに更新することも、私は「引き算」ではなく「付け替え」だと考えます。
一方で、知識を使うときは、単に知識を取り出しているわけではありません。記憶は分散して表現されていて、新しい情報によって既存の概念同士のつながりや意味づけも変化します。
なので、知識Aに知識Bを足すというより、新しい知識によって、それまで持っていた知識のネットワークそのものが変わっていく。
私はそれを、足し算よりも「掛け算」のイメージで捉えています。
ちなみに、テイカーの例は、知識というより「理解や判断」の変化として捉えたほうが分かりやすいと思いました。
知識を増やすことと、その知識からどう考え、どう判断するかは、別の話なのではないでしょうか。

ぼたもち
何かを学ぶ初期段階では、知識や情報を足す作業は欠かせません。しかし知識が増えるにつれて、不要な思い込みや古い前提も一緒に溜まっていきます。それらを疑って削ぎ落とし、本当に重要な核心だけを残すことで、初めて深い理解に到達できると感じています。
したがって私にとって知識とは、削る作業を通して本質を見極め、完成させていくものです。

H.I
しかし身につけて損はない

ギゼン
不要な情報を引くという動作は、同時に負の数を足すという動作でもあると言えるためです。引き算と称するためには過去に戻るなどして「媒体から情報そのものを取り去る動作」をしなければならないと個人的には定義付いているためです。ドラえもんのタイムふろしきやタイムマシンみたいなのですね。

🍑ポンコツももりん
そして最後は引いてシンプルになっていく
……かな🙄

まるまる
増やすのも、修正するのも、懐疑的になるのも、
前提知識があるから。
キャンバスに絵の具で色を塗っているような感じで、そこには消しゴムのような引き算は存在しないと考えます。色が混ざることは多いにあるかと[ほっとする]

むかで
という自論ですがw
最後に手放す為に、積み上げ研鑽するのではないか?と思ってます。

サノ
いろいろ考えた結果、いろいろ考えてしまっているこの状態こそがもっとも自分を幸福から遠ざけているという事実に気付く
つまり引き算の知識とは、それ即ちハナから何も考えないことと同じです

世紀末覇者ラ王
私にとって知識とは、足し算された「知っている」という状態から、「わかっている」へ変えるために、引き算が必要なものだと思っています。
例えば、
「あの人はテイカーだから、相手にしない方がいいよ」
と言われたとします。
その結果だけを見て、
「この人はテイカーなんだ」
と知識を足すのではなく、
どんな文脈で、どんな関係性の中で、テイカーという状態が成立したのか。
それを見ていく。
すると、
「これは自分にも当てはまることがあるのでは?」
「ギバーもテイカーも、人間なら誰しも持ちうる側面なのでは?」
と考えるようになります。
そうすると大事なのは、
「テイカーだから避ける」ことではなく、
「テイカーという関係性が成立する条件を見て、その条件をどう扱うか考えること」
なのではないか、と私は考えます。
私にとっての引き算とは、こうして結果のラベルを外し、仕組みそのものを見にいくことです。
テイカーを説明するために別の知識を足し、その補足を説明するためにまた知識を足す。
それを繰り返すほど、本質から離れてしまうこともあるのではないでしょうか。
もちろん、これが正解だとは思っていません。これが、私にとっての「知識の引き算」です。
みなさんの思う知識とは、足し算ですか?引き算ですか?
正解・不正解ではなくて、みなさまが思う知識を教えて下さい。
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