「好き」という経験は、LikeとLoveのニ項ではなく、もっと多次元・多義的なのではないか?(本文あり)
フィン語には雪を形容する語彙が50以上、モンゴル語には家畜を形容する語彙が200以上あるが、好きを表す語彙粒度が粗いのではないか?
この場合、本来なら繊細さや複雑さが織り混ざった好きという想いが、言語が規程する境界・射程に当て嵌められ、縮約されてしまうのではないか。
※ 問いは、言語は思考や経験を生成するツールである反面、思考や経験を縮約する制約にもなっていることを前提としています。

たくひら
みるく

ギゼン
感覚的に
友達的に
人として
異性として
相方として
恋人として
伴侶として
好きってあるんですよ。
そりゃそうです 日本語って多元的で多義的ですよね[笑う]

パン

蘇我靈眩導師准尉
「好み」として展開を見た場合はより多義性を感じれると思う。

YOSHI
雪や家畜など他の人にも形が分かるものだから語彙が多くなりますが、感情を言葉にするのが難しいので少ないのではと思います
実際に好き「like」でも
自分と相手の好きの度合いを表現するのは難しい
です。
そこの言葉にすると滑稽だなと感じます

セナ
さんかく

こうしん
性質的に心を捉えるには観測者の観点そのものによって結果が変わりそう
いやそれ好きじゃん?ってこと

かるにたす
同じものを同じ感覚で好きと言っているように感じても細かいニュアンスは異なるので、好きが分岐していくとコミュニティの形成が難しくなる、とか
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