悪とは「性質」なのか「選択」なのか
生まれながらにして悪は存在するのか、しないとしたらなぜ悪を選択するのか。或いは人は自らの意思で善悪を選択できないのか。
皆さんの考えを教えて下さい。
のる

Jotak
たれぱん
「悪→どちらでもない→善」
、、、みたいな感じで、実態はなくて、何か事案があって、その事案が良かったのか悪かったのかということかな。
具体的には、善か悪かを図る対象の事案が必要です。その事案には事案を起こす人と受ける人も必要です。
その3つがあって、善か悪か判定というか、どのくらい「悪」か図る事ができます。
事案を起こした時、影響を受ける人がいなければ、「悪」と判定する人はいません。よって、「どちらでもない」になります。
意図した相手に対して、困る事案を行った場合、その相手が困ると、その相手はその事案に対して「悪」と判定すると思います。
また、意図した相手に対して、困る事案をなぜ行うのかというと、自分の内部に困ることがあって、自分だけが苦しい思いをしているのが辛くて、自分と同じ苦しみを相手にさせたかったかもしれないです。
したがって、「悪」は生まれつきの「性質」ではなく、関係性の中で生じる「評価・度合い」であり、事案の動機は内面の苦しみに起因する「選択」かな。
せい君
他者が悪として選択した結果が悪

ナトル
同じ悪いことをしても【大悪党】にもなるし 義賊】にもなる
二択の場合なら【 性質】

かずら
悪は性質でも選択でもないと思う。
悪は時代やコミュニティ、前提文脈などありとあらゆる事情による変動性が大きいし、阻止抑止も難しい。
場合によっては、当時の正義を過去の悪として裁かれる場合も存在する事があるように、同じ選択でも悪と正義は入れ替わりうる。
だから、
何かしらどこかの評価主体にとっての不都合に名前をつけた『定義』でしかないのではないかな?と思う。
見習い
私の仮説では、「悪」とは、人間が自分にとって都合の悪い事実から視線をそらすことで生じるものです。
そして、その「視線をそらす」という選択には、本人の意思が関与していると考えています。
つまり、意思による決定は可能だと思いますが、そこには障害や制約がある。
例えば、誘惑によって視線を逸らされるというのが分かりやすいかもしれません。
だからこそ、誘惑に視線を逸らされないためには強い意思が必要であり、それでも自ら視線を逸らしたのであれば、その選択に対する責任も自身にあると考えます。
みゅんひ
とある“誰かの行動”について、良いのか悪いのか、もっというと、好むのか気に入らないのか、を、主観的に判断しているのは、行動を取った本人を含む、とある人のとある行動を客観視している者のアタマです。つまり、善悪というのは自然界に自生的に存在するわけではなく、関わった者の客観的判断から抽出されたものに過ぎない、と言えるのではないかと考えています。
これをものすごく平べったくして言いかえると、善悪というものは、それを見た者の『感想』に過ぎないのではないかと思います。
とある事が“善か悪か”というのも、時代でも場所でも大きく変わるものです。日本でもひと昔前までは、おサムライをバカにした農民は斬り捨てられて当然だったわけで、この場合はおサムライは善で農民が悪になるわけですが、今の感覚で考えると、殺人は誰であろうと悪です。
こんなふうに、善悪って結局、その人その人のアタマになんとなくあるような、危ういものなんだと考えておいたほうがいいのではないかと思います。

コーユー
なぜなら、何かの基準から評価されて、はじめて「善い・悪い」が決まるからです。
もちろん、「悪事」として定められている行為を選択することはできます。ただ、それが悪いことだと知らなかったり、理解できていなかったりすれば、必ずしも悪を選んだとは言えません。
また、善悪は必ずしも二択ではなく、グラデーションでもあります。さらに、一人の人の中に、善い面と悪い面が共存することもあります。
だから「生まれながらの悪人」というより、生まれ持った性質や傾向が、ある社会や倫理の基準によって「悪」と評価されることがある、と考えたほうが自然だと思います。
そう考えると、善悪は時代や文化によっても変わってくるのではないでしょうか。

サリンジャー
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