哲学には正解があるのでしょうか? 既存の知識から正解を探すことと、哲学することは同じなのでしょうか?

K
全く異なる話なので、そもそも比較する対象にはならないと思います。
さかきみなと
多くの人が得心するものは、正解に近いものでしかないのだ
様々な葛藤や矛盾があって、それが哲学なのだ
見習い
だからこそ、「あるかどうか分からない。では、あるとしたら何なのか?」と考えること自体が、哲学的な一歩だと思います。
仮に「正解など存在しない」という結論になったとしても、その「存在しない」ということ自体が一つの答えになります。
つまり、「正解があるかないか」そのものが哲学的な問いになり得ると思います。
また、「既存の知識から正解を探すこと」と「哲学すること」は、視点の違いかも知れません。
前者は「既存の知識を前提として、その中から答えを見つけ出す」
後者は「その知識や前提そのものが正しいのか、それは何故なのか、まで考える」
その意味では、既存の知識から答えを探すことと哲学することの違いは、その知識や前提そのものまで問いの対象にするかどうかにあるように思えます。
そして、そもそも「正解」とは何を指すのかによっても、この問いへの答えはかなり変わってくると思います。

コーユー
哲学するとは、当たり前だと思っていることを問い直し、その前提や根拠を深く考えることかと思います。
既存の知識から答えを探すことも、そのための一つの方法です。ただ、それだけが哲学ではありません。
思考実験をしたり、懐疑的に検討したりしながら、「そもそも、この答えや問いは本当に妥当なのか?」まで考えていく。
答えが一つに定まらないこともありますが、だからといって何でも正解というわけではありません。根拠や論理から、より妥当な答えを探究できる。
私は、そんな営みが「哲学すること」なのだと思います。

Sasha
正解を導き出す時に活用するのが哲学
たれぱん
、、、とすれば、あると思います。
ただ、、、1つでもないかな。
例えば、、、
「自我」について哲学した場合、
①ネットで調べたところ、「我思う、ゆえに我あり」という言葉を見つけた。「なるほどそうかも」と思った。
②ネットなどは使用せず、今までの自分の経験などから、いろいろ考えた結果、「自分が自分に気づかなければ、自我はないのでは?」という考えに至った。
①と②を哲学した人にとって、「自我」を哲学するにあたり、楽しめたか、また新しい発見があったかというと、双方にその要素はあると思うけど、濃さが違うかな。

Sasha
価値的に捉えたい自分にとっては正解
哲学は方程式と思っています
物事の捉え方のクオリティを
上げる事が大切だと思うので
思考内容の質を良くする為の
行いに用いています

HAL
哲学は幾多の人々が思考してきた、それこそ既存の知識の積み重ね、さらに後世の人々がそれらを研鑽してきたものの上にあると私は考えます。
正解があるかは私には分かりませんが、正解を追い求める姿勢は正解なのではないでしょうか。

アキぷしゅ

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