善いことをした時、人はなぜ「善い」と分かるの?
ブラックテール
やった本人の自己満足かもだし、見てる人もそれが良いか、気にもしないか。

ノゾ

ei

言葉のナイフ折る人

ナツミカン


ハリー

えぬ

しん
けれど、相手もそう思っていたとは限りません。
「善いことをした時、なぜ人は『善い』と分かるのでしょうか。」
この問いを考えるとき、私はある場面を思い浮かべます。
たとえば、身障者の方が段差を越えようとしている。親切心から手を貸す。多くの人は、それを善い行いだと考えるでしょう。
けれど、その人は自分でやろうとしていたかもしれません。自分の身体と向き合いながら、挑戦していたのかもしれません。
だとしたら、その行為は助けだったのでしょうか。それとも、本人の機会を奪うことだったのでしょうか。
そう考えると、「善いこと」は思ったより簡単ではありません。
私たちは善さを、自分の行いの中に探そうとします。しかし本当に大切なのは、その行いを受け取る相手の存在なのかもしれません。
善意は尊いものです。けれど、善意だけでは足りません。
相手は何を望んでいるのでしょうか。何を大切にしているのでしょうか。その人の声に耳を傾けようとするとき、初めて善さは形を持ち始めるように思います。
だから私は、善いことをした時に「善い」と分かるのではなく、本当は最後まで分からないのではないかと思うのです。
分からないからこそ、私たちは相手を見つめます。分からないからこそ、「これでよかったのだろうか」と問い続けます。
その問い続ける姿勢の中にこそ、善さがあるのかもしれません。
設問の前提を覆すような応答になってしまったことは、どうかお許しください。
けれど、「なぜ人は善いと分かるのか」という問いに真摯に向き合おうとしたとき、私にはむしろ「本当に分かっているのだろうか」という問いが立ち現れました。
問いに答えるために、問いそのものを問い直してしまう。
それもまた、問いへの一つの礼儀なのではないかと思うのです。
だから最後に、最初の問いを少しだけ言い換えて返してみたいと思います。
私たちは本当に、善いことをしたと「分かっている」のでしょうか。
それとも、その答えの分からなさを抱えながら、他者を大切にしようと努め続けることの中にこそ、善さは宿るのでしょうか。

ケイスケ

Jaco_ten
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