善いことをした時、人はなぜ「善い」と分かるの?
せい君
chiaki
良い事した時に自分がいい事したなって思える自己満だが、相手が幸せになるならそれだけでもいい

ようへい

ともごん

白

かぜ

ふう
「自分の行動によって、物事がいい方向(主観的な理想)へ向かうという確信」
が関わるように思ったんです。
「感謝されること」という解釈がすごく好きで、そこから少し自分なりにぐるぐる考え、この回答にたどり着きました。
極論、
たった今から、この地球にいる人間が、もしも自分だけになったらどうだろうと考えたんです。
感謝してくれる人がいない状況です。
自分なら、
枯れた花に水をあげて、その潤った様子を、「花から感謝された」と解釈して善いことをした気分になるだろうなと思ったんです。
それは、「花が元気を取り戻すに違いない」という、「自分の行動によっていい方向に向かう確信」があったからです。それに対する感謝があるはずだと。
でも、もし、この花にとって、水が毒だったら?
自分の行動で この花が完全に腐ったのを見て、「自分の行動によっていい方向に向かう確信」が壊れた瞬間、自分のした事が善いことではなかったとわかるのだと思います。
ただし、「自分の行動によっていい方向に向かう確信」が壊れかけても、それを揺るがず強固にしてしまうものこそ、「感謝されること」なのだと思ったんです。
もしこの花が話すことができて、水が毒であって最悪の結果になるとしても私に「ありがとう」と伝えてくれていたなら、私は自分のした行動に別の価値を確信するでしょう。
それは毒だったけど、花は私のやさしさに心を癒されたんだという「いい方向へ向いた確信」が、少しでもこびりつくんです。完全な善ではなかったけど、悪だとも言い切れなくなるんです。
千羽鶴の論争や、ありがた迷惑もきっとこれが関わるのだと思います。
もし「感謝される」ことがなければ、「自分の行動によっていい方向に向かう確信」が揺らぐかもしれません。
しかし、「感謝される」ことがあれば、「自分の行動によっていい方向に向かう確信」が、結果を見ずとも確定したように感じ、善いことをしたんだと満たされてしまうんです。
また、感謝されなくても、「自分の行動によっていい方向に向かう確信」が強固なものであれば、自分の行動が善いことだと疑わないでしょう。
その「いい方向」が、相手にとって望まないものだとしても、というのも重要な問題です。
善いことだという指標は、まさに主観的な確信であり、「感謝される」という客観が、それを強固にしてしまうのかもしれません

セナ
何故良くなるのかは本能だからさ

フレム・チェンバース

HAL
人を助けようが傷つけようが、誰かからありがとうと言われたら善いことをした気になりませんか?
誰からも何も言われなければそれらは曖昧で、善いことをした或いは悪いことをしたと自分に言い聞かせるしか無い。
善いことなんかそれぞれ一個人の主観でしか無いと思っているので。
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