善いことをした時、人はなぜ「善い」と分かるの?

かぜ

フレム・チェンバース

ともごん

tetra
最近聞かなくなりました 自分だけでしょうか。
これは善として、能動的に対象に行う行為は、これまでの社会経験に基づく、自分の価値判断として善です。
一方で、善を意図しない行為であったとしても、社会の評価として、その行為が善とされることもあるはずで、これは社会的価値判断としての善として遡及的に認識されることになると思います。

BEVEL(べヴェル

ei
ティリル
善悪の軸があるから善いと分かる。
それが宇宙全体にとっての善いかどうかは判別しようがありません。

風の音
社会経験の少ない赤子に近い子どもたちは、善悪の基準を持っていないから「ダメ」と言われる行動をとる場合がありますが、それを「ダメ」と教えられることで基準が形成されていきます。
なので、その行動を観て「善い」と判断した場合、判断した人の中にその行動は善いという基準を持っていると言えます
「善悪」の基準は経験や学習などにより形成されていきますが、それは即ち「教えられた生活環境や立場などにより簡単に覆される判断基準」でしかありません。
テロ行為を「英雄」扱いする国もあれば、よかれと思ってやった行動がかえって状況を複雑悪化させてしまうこともあります。
悪事で稼いで褒められる組織もあれば、「悪」のレッテルを貼ったところ事情を知って簡単に評価を反転する人もいます[笑う]

若
なので、『道義』に適うかどうかを考えた上での行動だから、自身で確信が持てるのではないかと思います。
そのためには正しい教育を受けておく必要がありますが。
(何が正しい教育なのかはさて置いて……💦)
少なくとも、その『道義』を考えずに行動すると、自己満足になってしまうのかと思います。

しん
けれど、相手もそう思っていたとは限りません。
「善いことをした時、なぜ人は『善い』と分かるのでしょうか。」
この問いを考えるとき、私はある場面を思い浮かべます。
たとえば、身障者の方が段差を越えようとしている。親切心から手を貸す。多くの人は、それを善い行いだと考えるでしょう。
けれど、その人は自分でやろうとしていたかもしれません。自分の身体と向き合いながら、挑戦していたのかもしれません。
だとしたら、その行為は助けだったのでしょうか。それとも、本人の機会を奪うことだったのでしょうか。
そう考えると、「善いこと」は思ったより簡単ではありません。
私たちは善さを、自分の行いの中に探そうとします。しかし本当に大切なのは、その行いを受け取る相手の存在なのかもしれません。
善意は尊いものです。けれど、善意だけでは足りません。
相手は何を望んでいるのでしょうか。何を大切にしているのでしょうか。その人の声に耳を傾けようとするとき、初めて善さは形を持ち始めるように思います。
だから私は、善いことをした時に「善い」と分かるのではなく、本当は最後まで分からないのではないかと思うのです。
分からないからこそ、私たちは相手を見つめます。分からないからこそ、「これでよかったのだろうか」と問い続けます。
その問い続ける姿勢の中にこそ、善さがあるのかもしれません。
設問の前提を覆すような応答になってしまったことは、どうかお許しください。
けれど、「なぜ人は善いと分かるのか」という問いに真摯に向き合おうとしたとき、私にはむしろ「本当に分かっているのだろうか」という問いが立ち現れました。
問いに答えるために、問いそのものを問い直してしまう。
それもまた、問いへの一つの礼儀なのではないかと思うのです。
だから最後に、最初の問いを少しだけ言い換えて返してみたいと思います。
私たちは本当に、善いことをしたと「分かっている」のでしょうか。
それとも、その答えの分からなさを抱えながら、他者を大切にしようと努め続けることの中にこそ、善さは宿るのでしょうか。
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