他者と分かりあえることは可能か?その限界はどこか?
人は言語を使用したコミュニケーションによって意思疎通を行なっている。物事に対する共通認識も、一定程度確かに理解し合えていると思う。しかし、他者との言語による認識の差異、ズレは相手との言語能力に大きなズレはないときであってもあるもの。果たしていったい、分かりあえないという言語が苦手とする領域、分野は、どのようなものとお考えでしょうか?

ネアンデルタール人

興味
以下、私の検討のプロセスです。
人間XとYがいたとします。
XとYは、共通の問題、1+1があったとして、いずれも2という解を文字情報として出力したならば、両者はこの問題について見解を同じくし、かつそのことを相互に確認できています。
つまり非常に限定的ですが、Xは、Yは自分と同じ考え、Yは、Xは自分と同じ考えだ、ということを認識しています。
さて、「わかり合う」とは何かを考えた上で本問についての検討を進めたいと思いますが、「わかり合う」とは、相当程度複雑な、例えば価値観のように解釈自体が複数生じ得るような「情報」について、前述のXとYのように、それぞれが同じ考えを持っている、あるいはお互いが何をどう考えているのかをわかっていると「認識」している状態ではないかと考えます。
この「認識」を成立させるには一定の表現が必要であり、その中でも言語は比較的安定していると思われます。1+1=2ほど単純ではないにせよ、情報を言語として表現することを積み重ね、その構造を共有できるのなら、この「認識」は十分成立するということです。もちろん、共有しようとする情報構造について、片方が否定する場合は成立しませんので、これが一つの限界です。また、情報構造を共有できていたとして、その処理プロセスが別個である以上、実際には異なる評価をしているにも関わらず、お互いの考えが分かっていると「錯誤」している可能性もあり、これも限界の一つであると思います。人間の内面は他人が知覚できないのであって、「わかり合う」ということは常に「認識」上の状態でしかない、「限界」はそのように言い換えることもできようと思います(なお、言語に寄らず、直感と非言語表現でこの「認識」を成立させている場合も往々にしてあると思いますが、それは、情報処理・評価が確認された場合に「錯誤」と判明することもまたしばしばあるものと考えます。)
これらから、冒頭の結論に至っています。
ところで本文では言語が苦手とする領域についても尋ねるものになっていますが、これは言語化が難しい事柄と抽象化しそれ以上掘り下げられる気がしませんでした。

アオ
分かり合うときもあり、やっぱり分かり合えないと思う時もあり、でも分かり合えたと思う時が来る。

パン
感じ方や価値観の違いは、どこまでいっても残ります。交わらない線の上に立ちながら、その隙間を結ぶのが、対話であり思いやりなのだと思う☺️

風の音
・使用語彙、理解語彙数
・表現力、理解力
・話した内容に対して受ける感情
・話す相手との関係性
が違うため、完全に分かりあえないのは当然だと思います。
映画館で映画を観ているとき、大勢の観客が笑ったり号泣したり、と言語だけでなく映像などからも多数の人が共感することは可能です。
しかし、その作品を観ても全員が同じ点数の評価を付けることはなく、ときには駄作と傑作の評価が二分することもあります。
このように、言語が理由ではなくパーソナリティの違いだと思います。

とんとん

ギゼン
その上で、互いが互いを受け容れるための目一杯の努力をし続ければ可能であると考えています。
その限界は者にもよりますが、いわゆるエヴァの「シンクロ率」を例えに上げるとするならば、受容の器の大きい者ほど他者に対しても高い理解力を持てるのではないかと思います。

Jotak

まりけん
だから本当に大切なのは、わかりあうことではなく、わかりきれない相手を、わかったことにしないことなのだと思う。

くらら♂
心は見えないのだから、分かり合えた、気持ちが通じる、なんてのは幻想だよ。
でも、相手の気持ちを想像して、相手のために動くことはできる。
分かりあうことが出来なくても、思いやる方が出来ていれば問題ない、と思うよ。
小さな親切、大きなお世話って言葉はあるけどねw
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