命題:自由は暇を内在しているか否か
補遺
自由を考える時、一般に定義されるのは労働や勉学、すなわち義務からの解放が自由である。
では、自由を哲学的に再定義した際、その自由に”暇”を含むことができるだろうか?
一般で定義すれば暇はこれすなわち義務からの解放である。しかし、一方で暇は自己の選択ではな偶発的な物であるならば”暇”を強制されるとも言える。
では、暇を選択したと言う自由の行使としよう。そうした場合、ある意味では仕事等も自由の行使に含んでしまう。仕事は生活に必要だとすれば、”暇”自体も同様だ。
ならば、自由を再定義する上で”暇”と言う、ただ消極的で拘束性を有する概念を自由という本来”解放”や”自己中心”を有する概念の内部として処理してよいのだろうか?

伯爵
人間にとって都合が良い菌の働きを「発酵」といい、悪い働きを「腐敗」と言います。
踏まえまして。
観測者にとって都合が良い猶予のことを「自由」といい、悪い猶予のことを「暇」と言います。
ショーペンハウアーの厭世論も参考になるかと思います。宜しければ是非。
Sana ✨

サト
単純に別レイヤーの共通部分なんじゃないかな
自由は主体性の問題で
暇は状態の問題
レイヤーが違う
例えば
自由だけど暇じゃない→自習時間
自由じゃないけど暇→待機時間
自由で暇→休憩時間

カズ
暇とは自由そのものである
どう行動するのか
それを自分自身の責任で選択出来る状態である
暇を持て余すのも選択のひとつであると言える
暇を持て余すのも責任のひとつであると言える
暇を持て余したとしても思考は自由である
暇を暇と感じる思考もまた自由である
選択の余地がある事
それが自由という概念である

投稿は友達のみ

バラタイン
最初から自由だとなんかあるたびに不自由にしか感じられなくなる
見習い
私は自由とは制約の不存在ではなく、制約の中で選択権を持つことだと考えています。
重力があるからこそ人は立ち、歩き、進む方向を選べるように、制約は自由を妨げるだけでなく成立させる条件でもある。
そのため、暇は自由そのものではなく、自由によって選択される状態の一つではないでしょうか。
結論として、暇を自由に内在するものとして扱うよりも、自由とは「自己の意思による選択権の保持」であり、暇はその結果生じうる状態の一つと考える方が適切かなと思います。

たくひら
自由を行使するということには、必ず「主体性」や「責任」「選択権」などがセットで議論の対象になります。この議論の前提には「理性」があるわけですね。
また、命題は疑問形ではダメなので、今回の場合は「自由は暇を内在していない」という命題で考えてみましょう。先ほど挙げましたが、「自由」には「主体性」がありましたね。主体としての個人が暇を理性を持って選択するのであれば、それは暇を主体的に選択したと言えるので、自由の名の下に暇を選ぶことができます。なので、自由は暇を内在しているといえるという反駁になりました。
ちなみに、おそらくこの質問している方が聞きたいのはこういうことではないと思います。「自由の中にサボりは含まれるのか?」「自由が素晴らしいものとされているが、サボりやがんばらないことは素晴らしいものとして賞賛されるべきではない」「自由が義務からの逃避を意味してるのならば自由は価値がない」といったようなことかと思いますが…果たしてどうですかね。

Jotak
ブラックテール
暇な時間など存在しない。
なにかしらしてるから。
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