言葉や概念はなるべく整理した方がいい?
アインシュタインとベルクソンのやり取りとか、物理学者と哲学者とで意見が異なった話は有名。現代でもそういった対立が見られることもある。新しい概念、言葉は時には必要だろうけど、自由すぎるといつまで経っても言葉のゲームから抜け出せなくなる。どこに意味の中心を置くのか?どこから自由に使うのかという線引きはどこでしている?それとも哲学的思考は自由連想であるべき?

たくひら
哲学全体としては、言葉や概念は整理した方が良いか?ということではなく、言葉や概念を整理する学問を哲学と言うわけで、ん?なんだその問いは?と突っ込まれることになります。
問題は個々人が哲学的な思索をする際の態度になります。質問者は理系或いは数学的素養の強い方なのでわかるかとは思いますが、理系や数学においては、「誤解が無いように」数字や公式のような形で物事を捨象して事象を説明しています。一方で哲学はどうなのでしょうかと言われると、哲学を考える上では物事を捨象するとなると「どこまで捨象したか?」という問いとの戦いになってきます。哲学のすぐ近くに論理学というものがあり、それが数学と密接に結びついているのはまさにこの問いが重要ですが…果たして、自らが哲学をする際に置いては、本当に考える時に捨象が必要なのでしょうか。
確かに論文や他者との議論、或いは他者とのコミュニケーションにおいては「誤解や誤謬を防ぐため」にも言葉や概念の整理は不可欠です。しかし、自己の内面での自問自答などを哲学の中心的営みとして捉えていったときには、整理や捨象が必要かどうかは立ち止まって考えてみた方が良いと私は思います。
私はメルロ=ポンティの視線がとても好きですが…彼の哲学的言説は整理や捨象からは生まれないだろうなというのも、今回の回答のベースにある思いとして上げさせていただきます。

くま
でも、人に考えを伝えるなら、
できるだけわかりやすい言葉を使うことが大切です。
難しいことをやさしく説明できる人ほど、
自分の考えを相手に正しく伝えられると思います。

カカ

あすにす

なぎ

かず

かずら
積み上げて、
混ぜっ返して、
また整理する。
積み木って、その繰り返しで消費するものだと思うよ。

ひろ✨

たむい
現象である。
物理学では客観。
哲学では主観。
整理しないまま話すと、意義ある議論にはならない。
言葉や概念の前提は整理すべきだと考える。

くらら
相対性理論がそうだけど、式が複雑すぎて現実の条件をすべて当てはめた式を立てるととても解けない。だから、星が一個だけの宇宙とか条件を絞って解釈を立てるわけで。
複雑な現実を複雑なまま語ろうとした時に、言葉が増えるのは仕方ないのでは?
まぁ、言いたいことは多分わかる。
ベジタリアンって言葉があるのに、ヴィーガンなんて語彙必要ないだろ、とも思う。が、そう思うのは俺がベジタリアンでもヴィーガンでもないからなんだよ。
言葉の意味って、辞書に書いてある部分じゃなくて、普段使うニュアンスが多分本体で、例えば上がると登るを使い分けられるのは、このニュアンスで言語を捉えてるからだと思うんよ。
だからこの、ニュアンスが違うんだよという思いの有無を第三者が感じ取れるのか、ってのが新概念を生み出すときは重要だと思う。そしてそれは常に行われてる。
毎年死ぬほど新語が生まれて、死語になっていくでしょ。今定着した言葉たちは最初の試練を乗り越えてるので、心配ないと思うけどなぁ。
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