私は、世界を「論理」で表し切ることはできないと思います。もちろん、論理はとても強い力を持っています。物事の関係を整理し、曖昧さを減らし、他者と理解を共有するためには欠かせません。科学や法律、技術が成り立つのも、論理という土台があるからです。私たちは日々、気づかないうちに論理に支えられて生きています。けれども、世界そのものが論理でできているのかというと、少し違う気がします。たとえば、夕暮れの帰り道にふと懐かしさを覚える瞬間があります。好きな人の一言が、何年経っても心に残り続けることがあります。あるいは、誰かと同じ景色を見ているはずなのに、まったく別のものを受け取っていることもあります。こうした出来事は説明することはできます。しかし説明したからといって、その出来事そのものを掴み切れたわけではありません。論理は地図に似ています。地図がなければ遠くへ行くことは難しいでしょう。しかし地図の上には風の匂いも、足元の感触も、偶然出会った人との会話も描かれていません。地図は世界を示しますが、世界そのものではありません。私たちはしばしば、言葉にできたものだけが本当に存在するかのように考えてしまいます。しかし実際には、言葉になる前から何かを感じています。理由がわからないまま惹かれたり、うまく説明できないのに確信したりします。後から論理を使って意味づけることはできても、その最初の動きは論理の外側からやって来るように思えます。だからといって、論理が無力だと言いたいのではありません。むしろ逆です。論理は世界を理解するための最良の道具の一つです。ただし、道具が扱える範囲と、世界の広がりは同じではありません。世界は、私たちが語れることより少しだけ大きい。その余白があるからこそ、人は驚き、迷い、誰かを愛し、新しい何かを生み出せるのではないでしょうか。論理は世界を照らします。しかし照らされた部分の向こうには、いつもまだ名前のないものが残り続けるのだと思います。
厳密には表しきれない、でも運用上は問題なく表し切れる。といった感じですね。地図で例えてみると地図はその土地そのものを表しきっているとは言えないかもしれないけれど、その地図を使って道に迷わなければ運用上問題ないのでは?といった感じ。つまり、「表し切る」とは論理で世界を複製したいのか?論理で世界を扱いたいのか?ここが論点になりそうですね。そして世界を論理で表そうとすることを''変換''と捉えるならやっぱり社会的には表し切れるとするのが都合がいいですね。電話で話している時これは相手の声そのものじゃなくて1度変換されて作られた声なんだ、だから今話している相手は厳密には本人ではない。とか考える人は少ないでしょうね。まあどちらにもそれぞれの正しさがあると思いますよ。