世界を「論理」で表し切れると思いますか?

むむ
因果関係、相関関係の追求はその方向性、表す方に進んでいますね。

憂い顔の騎士

tetra
しかしながら、既にその証明はできないことを、ゲーデルの不完全性定理が言ってる。衝撃。

しん
もちろん、論理はとても強い力を持っています。物事の関係を整理し、曖昧さを減らし、他者と理解を共有するためには欠かせません。科学や法律、技術が成り立つのも、論理という土台があるからです。私たちは日々、気づかないうちに論理に支えられて生きています。
けれども、世界そのものが論理でできているのかというと、少し違う気がします。
たとえば、夕暮れの帰り道にふと懐かしさを覚える瞬間があります。好きな人の一言が、何年経っても心に残り続けることがあります。あるいは、誰かと同じ景色を見ているはずなのに、まったく別のものを受け取っていることもあります。こうした出来事は説明することはできます。しかし説明したからといって、その出来事そのものを掴み切れたわけではありません。
論理は地図に似ています。地図がなければ遠くへ行くことは難しいでしょう。しかし地図の上には風の匂いも、足元の感触も、偶然出会った人との会話も描かれていません。地図は世界を示しますが、世界そのものではありません。
私たちはしばしば、言葉にできたものだけが本当に存在するかのように考えてしまいます。しかし実際には、言葉になる前から何かを感じています。理由がわからないまま惹かれたり、うまく説明できないのに確信したりします。後から論理を使って意味づけることはできても、その最初の動きは論理の外側からやって来るように思えます。
だからといって、論理が無力だと言いたいのではありません。むしろ逆です。論理は世界を理解するための最良の道具の一つです。ただし、道具が扱える範囲と、世界の広がりは同じではありません。
世界は、私たちが語れることより少しだけ大きい。その余白があるからこそ、人は驚き、迷い、誰かを愛し、新しい何かを生み出せるのではないでしょうか。論理は世界を照らします。しかし照らされた部分の向こうには、いつもまだ名前のないものが残り続けるのだと思います。

セナ
思考実験であったよねこういうの鶏に定時にを与えてそれで生活基盤つくらせてそれをひっくり返すみたいな

an
と考えてみるのはどうでしょうか。
少し設問の意図に逸れるかもしれませんが、思考の可能性の一つとして、ここに記させていただきます。
この問いへの答えとしては、おおよそ大別すると次のふたつに分類されると思います。「世界の中に論理があらかじめ含まれている」 とするか、もしくは「世界から観測者が論理を見てとった」とするか。
この2つの答えは共に、論理が世界に対しては先行して存在しないこと、が前提されてしまっています。ゆえに、どちらであれ、「論理」が世界を表現している、という図式に行き着きます。
しかし、もし世界が論理に先立ち存在するとなると、一つの問題が現れます。それは世界それ自体の誕生の問題です。世界が先立って存在するとなると、世界は論理のない混沌状態から誕生することになります。
世界の誕生を考える時、ここには「原因が結果に先行する」や「AでありかつAではない(世界がある状態とない状態は両立しない)」といった論理がなければ成り立たないのではないでしょうか。世界が論理を成り立たせるのではない。むしろ論理がなければ世界が成立しない。ゆえに、論理が世界に先立って存在する、と考えなければならないと思われます。
そのように考えた時、冒頭の"世界が「論理」を表現している"という図式に行き着きます。世界が論理を可能にするのではなく、論理が世界を可能にする。論理が実現されうる可能なパターンが、世界でしかない。そのように考えてみても、面白いのではないでしょうか。
ティリル
所詮論理は人のルールです[にこやか]

じゃんく
といった感じですね。
地図で例えてみると
地図はその土地そのものを表しきっているとは言えないかもしれないけれど、
その地図を使って道に迷わなければ運用上問題ないのでは?
といった感じ。
つまり、「表し切る」とは
論理で世界を複製したいのか?
論理で世界を扱いたいのか?
ここが論点になりそうですね。
そして世界を論理で表そうとすることを
''変換''と捉えるなら
やっぱり社会的には表し切れるとするのが都合がいいですね。
電話で話している時
これは相手の声そのものじゃなくて
1度変換されて作られた声なんだ、
だから今話している相手は厳密には本人ではない。
とか考える人は少ないでしょうね。
まあどちらにもそれぞれの正しさがあると思いますよ。
Sana ✨

レタス
もっとみる 







