自分の営為が、“愛”ではなく“情”であった場合、やめるべきか?また、“愛”なのか“情”なのかはどうやって判断するのか?そもそも愛と情は区別できるのか?

SUZUME
(=双方向の信頼がある)
状態での
長期的に見た愛の為による
情による営為は
愛のみに誠実に生きる人より
深い位置にある上位互換である
と考えます。
愛を
『純粋な感情や理想』
とするならば、
情は
『時間と経験の積み重ね』
だと思います。
愛が初期衝動や特定の対象への
強い指向性であるのに対し、
情は困難や変化を乗り越える為の
『持続力や受容力』
を生み出します。
純粋な愛のみに誠実であろうとすると、
感情の揺らぎや
理想と現実のギャップに直面した際に
関係が脆く崩れてしまう
リスクがあります。
一方で情は
共に過ごした時間や
共有した記憶(喜びや悲しみ)
という土台がある為
感情の熱量に頼らずに
相手を支え続けることができます。
次に寛容さと受容の深さです、
愛はしばしば
『相手の理想的な姿』を
求める傾向がありますが
情は
『相手の欠点や変化、老い』をも含めて
受け入れる力(受容)を伴います。
結果として
より長期的で安定した関係性や
コミュニティを築くことができます。
ですので
『情に基づいた行動は、
相手に対する理解や思いやりが
ルーティンや習慣にまで
昇華されたもの』
なのだと思うのです。
『感情的な好きを超えて
相手の存在そのものを
支えようとするコミットメント』は
長期的な視点で見れば
より深い結びつきをもたらすのである
と考えます。

よんちゃん

パン

ぽろん
見習い
私の判断基準は、
事実や真実を歪めず、逸らさず、偽らないなら〝愛〟
利他的に動きたいという思いが、結果的に利己的であったとしても存在するなら〝情〟
になります。
私は〝愛〟を事実から目を逸らさない姿勢、真実を見ようとする姿勢じゃないかと考えています。
そして〝情〟とは、心の動く方向が利他的である事かなと。結果的に利己的であるとしても、心がそちらに動くなら。
そして〝愛情〟は、その利己的である事実を見つめ、それでも利他的に動こうとする事ではないかと思っています。

ひろひろ

むかで
そもそも愛と情の境界を説明できるでしょうか?
愛だの情だの言ってる段階は、頭で考えてるし浅いし疑ってるし裏切ります。
質問内容より、そう思う自分の思考をまず疑った方が良いと思います。

サト
愛は関係性から育み築くもの
情は離れたくない繋がっていたいという思い
なんだと思う
愛だけでも成立するし
情だけでも成立する
でも
関係性から築いたものがあるからそばにいたい
だから「愛情」なんだと思う

emus
必要なのは感情以外、一見冷たいとも見られるような合理の判断軸だと思う

ハンプティダンプティ
敗北に似てる
混沌と混乱と狂熱が
俺と一緒に行く♪
ってハイロウズの歌を思い出しました
自分の中の善意を行う対象に愛おしさを感じるか
否かですかね
どちらにおいても後者で続けるならば苦しくなる
事もあるかもしれませんね
ただ複合的な生き物なのでそれだけで営為を判断
出来るものでもありませんね
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