倫理と道徳とは何か?それらが一致するとき、それはどんな時/何が原因か?
倫理的な問題と道徳的な問題の違いも同様に考えられるでしょう。この違いを無視する弊害を考えても良いでしょう。自然主義的にこれが何かから始めてもいいでしょうし、ではこれがどこに付随するのか/どの対象が持つ性質なのかを考えてもいいでしょう。今まで考えたことが成り立たない状況を考えてみるのも、一興だと思います。
同一だという意見もあるかもしれません。実際にどちらが意味合いとして片方の部分集合か定まっていない時期もあったと聞きますので。
是非お好きなように、どこまででも考えてみてください。

SUZUME
それは
目的(ビジョン)と
結論(帰結)と
さらなる
未来の希望と理想のイメージが
一致した時である
と考えます。

シズ
「自分だけがそうしてよい」と考えている行為を、誰もが同じようにしてよい原則にまで一般化できるか?と問う。たとえば「困ったら嘘をついてもいい」という格率を、すべての人に普遍化したらどうなるか。カントは、そこに矛盾が生じると考える。
普遍化可能性=カントの倫理学における非常に重要な判定方法であり、
定言命法=その判定方法を含む、カントの道徳法則の根本原理と考えると分かりやすいです。
なので「同じですか?」なら、
同じではありません。ただし、普遍化可能性は定言命法の中心的な考え方の一つですというのがが一番正確なのかとかは思いますが。
「カント哲学以外も嗜まれますか?カント以外もかなりあります。むしろ「普遍化」という発想そのものはカントだけの専売特許ではありません。古代ギリシアの倫理学にも、「自分にとって善い生とは何か」「人間一般にとって善いとは何か」という問いがありますし、功利主義では「最大多数の最大幸福」という形で、個人の判断を超えた一般的な基準を求めます。
また、現代倫理学ではロールズやハーバーマスなども、「自分の立場だけからではなく、他者にも受け入れ可能な原理とは何か」という方向から普遍性を考えています。ただ、面白いと思うのは、「普遍化できるか」という問いそのものよりも、なぜ人間は自分の行為を普遍化して考えようとするのかというところです。そこまで行くと、カント倫理学だけではなく、アリストテレス、功利主義、ロールズ、ハーバーマス、さらに実存主義などともつながってきます。「普遍化できるか」だけならカント的ですが、「なぜ普遍化しなければならないのか」まで問うと、カントを越えて倫理学そのものの問題になる。ここが面白いところです。
カント『道徳形而上学の基礎づけ』
カント『実践理性批判』

シズ
道徳は実践されている規範、倫理はその規範を問い直し、考える営みと捉える
面白いのは「道徳は正しいとは限らない」というところです
道徳が「答え」だとすれば、倫理は「その答えを疑うこと」でもある。
哲学的には、倫理・道徳が一致する状態は、むしろ非常に興味深い状態です
道徳:「人を殺してはいけない」
倫理:「人間の生命を尊重する理由がある」
が同じ方向を向く。
こういう場合には、二者が重なります。
「人を苦しめてはいけない」
「困っている人を助けるべきだ」
「約束は守るべきだ」
これが共同体の中で共有されると、道徳になります。
その道徳を疑い、根拠を考える
ここで倫理が登場します。
「なぜ人を苦しめてはいけないのか?」
「どんな場合でもそうなのか?」
「助けることが、かえって相手を傷つける場合は?」
そして考えた結果、
「やはり、人間の尊厳を守るためには、この原則は妥当だ」となる。
すると「倫理と道徳の一致」は何なのか
非常に簡単に言えば、
道徳が「こうするべきだ」と言い、倫理が「なぜそうするべきなのか」を検討し、その理由を肯定できたとき両者が一致します。
ただ、ここで非常に面白い問題があります。
倫理と道徳が一致するためには、「共感」だけでは足りないんです。
「自分の家族は大切だ」という感情から、「家族以外はどうでもいい」という道徳も作れてしまう。だから倫理は、
「その道徳は、自分以外の人にも同じように適用できるのか?」と問い続けます。
ここで登場するのが、カントの普遍化可能性です。
「自分が採用している原則を、すべての人が採用しても矛盾しないか?」という考え方です。
そして、ここに倫理と道徳が一致する一つの重要な条件があると思います。
「自分にとって都合がいいから正しい」から、
「立場が変わっても正しい」へ移行すること。
「私は嘘をつかれたくない。だから人には嘘をつかない」これはまだ自分中心です。
それが、「自分が嘘をつく側になった場合でも、嘘をつかないほうがいい」
「自分が騙される側でも、騙す側でも、同じ原則を適用する」
となったとき、道徳が倫理的な普遍性を持ち始める。

くま
つらつら書かせていただきます。
倫理と道徳は似ていますが、視点が違います。
倫理とは、社会や集団が円滑に成り立つための行動規範です。
一方、道徳とは、自分の良心や信念に基づいて「何が正しいか」を判断する行動規範です。
つまり、
倫理は「社会としてどうあるべきか」、
道徳は「私はどうあるべきか」。
この違いで考えると、日本は比較的倫理を重視する国と言えます。
「空気を読む」
「和を乱さない」
「迷惑をかけない」
といった、社会全体の調和を大切にする文化だからです。
反対に、アメリカは比較的道徳を重視する国です。
「自分の信念を貫く」
「間違っていることには従わない」
といった、個人の良心を尊重する考え方が強く見られます。
この考え方は政治にも当てはまります。
保守は、伝統や秩序を守ることを重視するため倫理寄り。
リベラルは、人権や平等など「何が正しいか」を重視するため道徳寄りです。
もちろん、これはあくまで傾向であり、すべての人や思想に当てはまるわけではありません。
そして最も大切なのは、
倫理と道徳は必ずしも一致しない。
ということです。
例えば、会社の不正を内部告発する人は、自分の良心には従っていますが、会社のルールには反する場合があります。
逆に、社会の秩序を守るためには、自分では納得できなくてもルールに従わなければならないこともあります。
つまり、多くの社会問題や政治的な対立は、
社会を守ることを優先するか(倫理)、
自分の正しさを優先するか(道徳)。
この二つの価値観の違いから生まれているのです。
さんかく
それぞれの課題や表題に対しての論理は論のなかの理とか

ノゾ
好事家の域を出ない範囲ながらそれらを楽しく読むうちに思ったのは、「こいつらビビるくらい同じこと言ってるな」ということだった。
なにやら日本語としてのそれらにはニュアンスの違いが設けられ、使い分けられることがあったり、使い分けようとすることがあるみたいだけど、せいぜい空手の流派くらいの違いしかないんじゃないかなというのが、さしあたっての僕の理解。

Jaco_ten
ガー

おにゃに
倫理・道徳とはサイレントマジョリティーへの指標でしかない

